プラトニック・ソフィエンスの創造:新叡知へ向けて

『海舌』氏との合作で、2004年9月に、ニッポン・オリジナルの理論、不連続的差異論が、誕生しました。その後、理論が進展して、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY(新プラトン・シナジー理論)となりました。
http://ameblo.jp/renshi/
http://main.platonicsynergy.org/

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同一性主義と差異主義:Media Pointの様相について:原差異と差異/同一性

2008-06-10
いったい何が問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義の意義・意味である。これは事実として認めざるを得ない。
 先の私の考えは、Media Pointにおいて、反発と引き付けの二元性が発生し、反発が同一性主義となり、引き付けが、差異共振性になるというものであった。
 もっとも、丁寧に言えば、反発とは、イデア極性における斥力の極限を意味する。陰陽で言えば、陽の極限である。極限において、同一性主義が発生し、-1 が生起するのである。この同一性エネルギーがヤハウェである。しかしながら、引き合いの極限が発生すると考えられよう。
 これが、+1ではないのか。そうならが、その二つの極限の中間に差異共振様態があるのではないだろうか。即ち、-1/差異共振/+1である。また、思うに、差異共振とはMedia Point(MP)と考えることが出来るだろう。即ち、-1/MP/+1である。
 思うに、簡単に言うと、-1が同一性であり、+1が差異である。そして、構造は、実軸化されたMP、即ち、ゼロ・ポイントと考えられる。
 思うに、量子論的には、-1が粒子であり、+1が波動と見ていいのではないだろうか。つまり、両者は相補性を形成するのである。
 しかしながら、反発と牽引の極限として、-1と+1があるのであるが、それは、事実なのか。それとも虚構なのか。否、両者は現象ないしは仮象と考えられる。矛盾した現象事象である。
 ならば、その視点から見ると、例えば、磁気とは何であろうか。N極とS極とは何であろうか。それは、基本的には、+iと-iとの関係と見るべきであろう。対立が-1であり、牽引が+1ではないだろうか。
 結局、混乱させるのは、自己認識方程式の左辺(+i)*(-i)と右辺+1との意味である。差異とはどちらなのか。
 思うに、左辺が原差異であり、右辺が差異である。大雑把に言えば、ポスト・モダンは、右辺=差異を問題にしていたのではないだろうか。しかしながら、それは、-1といわば、鏡像関係であろう。
 だから、同一性-1と差異+1とは対称関係にあると言えよう。同一であるが、ズレがあるのである。これは、差延であろう。脱構築性であろう。いわば、鏡像のゆらぎである。
 だから、根源的には、原差異が問題なのである。イデアである。原差異=イデアが問題なのである。私が言う、個=差異=特異性とは、この原差異=イデアのことである。しかしながら、実際は、Media Pointにおけるそれであると考えられる。
 さて、先の父権主義と母権主義に戻ると、前者を-1、後者を+1としたが、それは誤りではないだろうか。
 ここは難しい点であるが、私がいう太母とは、原差異=イデアないしはMedia Pointだと思う。そして、-1と+1とは、物質とエネルギーの関係ではないだろうか。
 ここで、神話でいうと、イシスは太母であり、原差異=イデアである。そして、光のオシリスは+1である。そして、それを殺害するセトが-1であると思う。
 +1が生成ならば、-1は消滅であろう。いわば、両者で生死である。これが、現象の生成消滅のリズムではないだろうか。±1⇒ゼロである。(思うに、資本主義経済であるが、成長とは何だろうか。結局、反成長があるのではないだろうか。成長衰滅があるのではないだろうか。衰滅力が恐慌を発生させるのではないだろうか。)
 とまれ、以上から、先の父権主義と母権主義の対立の誤謬を指摘したことになる。つまり、母権主義とは、根本であり、父権主義は派生なのである。だから、太母主義があり、その派生としての父権主義である。
 では、宇宙物理学の問題はどうなるだろうか。これは、簡単に、原差異=イデアの極性の傾斜で説明がつくのではないだろうか。つまり、引き合いに対して、反発に傾斜しているということではないだろうか。つまり、反発に傾斜しているので、膨張の加速度が増加しているのではないだろうか。今はここで留める。

Posted by sophio at 01:49:21Comments(0)TrackBack(0) │村上春樹批判

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ

2008-01-02
観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ

田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。

Posted by sophio at 20:37:22Comments(0)TrackBack(0) │ポスト近代的自我/ポスト唯物論

プラトニック・シナジー理論からイエス・キリスト問題を考察する:その2:受肉説の崩壊と二人のイエス

2007-12-23
昨日、イエス・キリスト問題をプラトニック・シナジー理論の視点から試論的に考察した。http://ameblo.jp/renshi/entry-10061584053.html
かなり複雑な内容となり、わかりにくいので、ここで、再考も含めて整理したい。
 結局、考察の発端は、スロー人ロハス氏の提起されたグノーシス主義説(仮現説)とキリスト教会説(受肉説)であった。そして、私は、プラトニック・シナジー理論から即非説を提唱した。
 先の論考では、即非説から、仮現説と受肉説を見て、両方とも否定する結果となったが、今、平静に見ると、即非説とは、超越エネルギーをイエスは即非共振しているということであり、即非共振している領域は、イエスの心(霊)であり、肉体ではないだろう。だから、仮現説と受肉説を考えると、仮現説は即非説と同じになると思えるのである。つまり、イエス・キリストとは、神霊の仮現であるということである。
 ただし、完全に仮現説を肯定するわけではない。なぜなら、仮現説だとイエスの心とは別に神霊があり、それが、イエスの心身に仮現しているということになるからである。即非説は、イエスの心(霊)において、神霊が即非共振していると考えるのである。これは、先に述べたように、イエスは神であり、また、神ではないということである。精密に言うと、イエスの心は神であり、同時に、神ではないということである。
 だから、まとめると、即非説は、受肉説(キリスト教セントラル・ドグマ)を完全に否定するが、仮現説に対しては、一部は正しいと認めることになるのである。すなわち、イエス・キリストは神の仮現(神ではない)という点は肯定するということである。しかし、仮現説は、イエスは神であるという点がないので、欠陥があると考えられるのである。
 これで、即非説、仮現説、受肉説の説明が整理できた。次に、問題をさらに複雑にした同一性の問題、ないしは、イエスの二面性あるいは、できれば、二人のイエスの問題を整理したい。
 この問題も上記の問題に匹敵するような最難問の一つである。これは、父の問題として捉え直すことができる。つまり、Media Pointにおいて、神霊エネルギー=超越エネルギーと共振した人物として、イエス・キリストがあるならば、それは、本来的には、太母の子となるはずである。神話学的に言えば、神霊エネルギーをイシスとすれば、イエスはオシリスである。日本神話では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に対する日御子(ひのみこ)=「天皇」である。カトリック的に言えば、聖母の子である。しかしながら、聖書では、イエスは神を父と呼んでいる。この矛盾をどう考えるのかということでもある。
 太母の子と父の子。私は、昨日の拙稿では、両者が混淆していると考えたのである。矛盾・二面性があると述べたのである。(二人のイエスという伝承があるが、ここで考察すると議論が混乱するので、残念ながら、避けることにする。)
 直感では、やはり、太母の子と父の子が重なっているのである。(私は、昔、新約聖書を読んで、強くイエスの分裂性を感じたものである。そう、わかりやすく言えば、平和の御子であり、同時に、戦争の魔神である。)だから、問題は、この重なりをどう理論化するのか、ということになる。本当に難しい問題である。つまり、いろいろ仮説が立てられるのである。やはり、二人のイエスの伝承を言う必要があるように思えるのである。
 結局、二人のイエスの伝承を仮説として取りあげれば、一人のイエスは太母の子であり、もう一人のイエスは父の子ではないかと思うのである。実際に二人のイエスが存して、それぞれ、違う教えを唱えたように思うのである。
 太母の子とは、結局、太古の秘儀・密儀の叡知に通じる考え方であり、プラトニズムとも共通する考え方から生まれたものである。それに対して、父の子とは、ユダヤ教のメシア待望から来ていると思われるのである。つまり、端的に言えば、ヤハウェの子である。
 結局、女神の子であるイエス(簡略して太母イエス)とヤハウェの子であるイエス(父の子)の二人が実際に存していたと仮定するのである。前者、 Media Pointの教えであり、それは、『トマスによる福音書』に現われたような教え(グノーシス主義的教え)を説いていたと考えられるのである。
 それに対して、ヤハウェの子のイエスは、自分がユダヤ教が待望した救世主であることを説いていたと考えられるのである。つまり、神人イエスである。(そう、これは、また、ゾロアスター教に関係すると言えよう。ハルマゲドン、千年王国、最後の審判等の問題である。)
 ここで、民衆の問題がでてくるのである。民衆はどちらのイエスの教えを受け入れたのか、である。当時、ローマ帝国の圧制に窮乏していた民衆は当然、救済する神を待望していたことは考えられるのである。また、諸宗教が混淆していたヘレニズム時代であることを考えなくてはならないだろう。太陽信仰のミトラス教もあったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
 思うに、民衆はそれらを知的に峻別したとは思えない。諸宗教が混淆したまま、信仰したに違いない。それを考慮して、二人のイエスを考えると、民衆は両者を受け入れたことが考えられるのである。要は民衆は両者を区別しなかったと考えられるのである。つまり、二人のイエスが民衆の心の中で、混淆していたということである。
 私の考えでは、福音書は、キリスト教会の立場から、二人のイエスの教えを、父の子の教えの視点から、まとめて書かれたものではないのかというものであったが、今、考えたのは、民衆の心中の二人のイエスの混淆された心象に基づいた書かれたものではないのか、ということである。
 とは言え、やはり、何らかの区別はあったと思うのである。しかしながら、福音書書記は、父の子の視点から、それを統一させようとして書いたと思われるのである。つまり、キリスト教会の視点から、福音書を書いたと思われるのである。
 整理しよう。二人のイエスがいた。太母の子のイエスと父の子のイエスである。そして、民衆は、両者を混淆した心象をもっていた。しかしながら、混淆していても、民衆は、なんらか、二人のイエスが存したことは認識していたはずである。しかしながら、福音書書記は、キリスト教会、即ち、父の子の視点から、二人のイエスの教えを統一しようとして書いた(創作した)と考えられる、ということである。
 しかしながら、福音書書記の努力によっても、二人のイエスの全く異なる教えは調和できなかったのである。正に、水と油の教えであるからである。平和と戦争を同時に説いているのだから。本来別々のものを、父の子の視点で統一しようとすることに無理があるのである。
 とまれ、後世において、キリスト教会・父の子の視点が勝利して、太母の子のイエスの教えが否定されていったと言えよう。つまり、キリスト教とは、二人のイエスの伝承・史実を無視して、また、太母の子のイエスの教えを父の子のイエスの教えに同化したものであるということである。端的に言えば、愛の教えとは、太母の子イエスの教えから発したものであり、それは、本来は、Media Pointのもつ差異共振性であると考えられるのである。それは、「汝自身を愛する如く、隣人を愛せよ」ではないはずである。「汝自身」という言い方が自我的である。それは、Media Pointにおいては、無我になるのが正しいのであり、汝という自我はないのである。これは、太母の子のイエスの差異共振性の教えが、父の子のイエスの自我主義によって歪曲されていると考えられるのである。
 とまれ、太母の子のイエスの教えと父の子のイエスの教えが、後者の視点で混淆しているのが福音書であると推察できるのである。
 最後に、父の子のイエスの同一性について説明した本稿を終えたい。これは、神人の観念と通じるのであるし、自我の観念に当然通じるのである。
 いったい、父の子とは何だろうか。父とは、超越的同一性志向性である。自己認識方程式では、+iであり、太極原理では、陽である。これは、同一性主義を生む根元である。だから、父の子であるイエスとは、直感では、同一性中心主義(ロゴス中心主義:教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と捉えたが、それは、教会の視点からは、恐ろしく正しい。いったい、教父たちとは何であったか。初期キリスト教会とは何であったのか。悪霊と悪魔の巣窟ではなかったのか。)である。
 そう、子とは何だろうか。それは、イシスとオシリスの宗教・神話からわかるように、イシスが太母であり、その子がオシリスである。イシスを月とすれば、オシリスは太陽である。もっとも、この区別は即非的である。イシスを太陽と見ることもできよう。
 とまれ、子とは、超越エネルギーが連続エネルギーへと転化することを意味すると思われるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で見れば、⇒ +1であり、連続性・同一性を意味するだろう。しかしながら、父の超越的同一性志向性が基盤にあるので、父の子とは、超越的同一性主義になるということであろう。つまり、父の超越的同一性志向性が、父の子において終極(エンテレケイア)を形成して、超越的同一性主義になると考えられるのである。これが、父の子のイエスの哲学的意味である。これは、正に、近代合理主義の原点である。そして、悪魔主義である。父の子イエスとは端的に悪魔・魔神である。
 ということで、福音書のイエスには、福神と魔神が混淆しているのである。なんというアイロニーであろうか。しかし、事実である。これが、精神的観点から言えば、人類史上最大の災厄、最悪である西洋文明を生みだしたのである。
 今日、新たに、Media Point、Cosmic Media Point、Great Media Pointが啓かれていると考えられるのであり、新たな文明の入口に達していると考えられるのである。理論的には、ユダヤ・キリスト教西洋文明の日没であり、新たな東洋文明の曙光を意味すると考えられるのである。
 では、イエス・キリストはどうなるのだろうか。そう、太母の子のイエスは復活するのである。太母子教が生まれるだろう。新女神教である。太母子イエス教が生まれるだろう。D.H.ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で表した復活したイエスとは、正に太母の子のイエスである。

Posted by sophio at 18:37:45Comments(0)TrackBack(0) │ポスト・ユダヤ/キリスト教

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

2007-11-01
本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
 私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。
 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。
 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。
 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。
 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。
 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。
 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。
 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。
 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。
 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。
 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。
 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。
 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。
 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。
 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。
 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。
 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。
 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。
 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。
 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。

Posted by sophio at 21:11:47Comments(0)TrackBack(0) │ポスト・ユダヤ/キリスト教

自由主義経済の問題:資本主義的自由主義と差異共生主義:トランス・モダン共生体経済へ向けて

2007-09-29
自由とは何だろうか。西洋近代においては、封建体制というよりは、絶対主義的国家体制への反抗から自由が生まれたと言えよう。アメリカ合衆国の、イギリスに対する反抗としての独立戦争があった。
 ここにあるのは、経済を営む「市民」の自由を求める積極的闘争があり、また、その勝利があった。そして、近代的自由主義が生まれた。ここには、経済的市民の自由が主体であり、国家的束縛に対する反抗がある。
 問題は、この経済的市民の自由とは何か。当然ながら、それは、経済的フィールドにおける自由である。おそらく、本来、それしか意味しないはずである。だから、経済的自由主義と言えるのではないだろうか。そして、この場合の経済は資本主義であるから、資本主義的自由主義ということになるだろう。
 問題は、経済的自由主義ないしは資本主義的自由主義は、経済領域においてのみ、妥当であるのであり、他の領域においては、妥当しないという点にあるのではないだろうか。つまり、社会領域、生活領域、自然・環境領域、精神領域等においては、それは、本来妥当しないのではないだろうか。というのは、経済的自由主義・資本主義的自由主義は、力強いものであるが、それは、闘争・戦争的自由主義であり、他者破壊的であるからである。
 必然的に経済的自由主義/資本主義的自由主義を矯める、制御する原理が必要ということになるだろう。グローバリズムの現代、それが正に欠落していると言えよう。
 経済的自由主義/資本主義的自由主義は、経済以外の領域にとって、独裁よりは、一般には弱いが、それでもきわめて恐ろしい原理である。これは、言わば、交換価値絶対主義である。差異を利用しつつも、量的な同一性価値=交換価値を絶対視する原理である。これは、明らかに、自然な人間的価値、民主主義的価値、あるいは精神・文化的価値等々を解体・破壊するものである。つまり、端的に言えば、経済的自由主義/資本主義的自由主義は、民主主義に対立するのである。だから、自由民主主義という観念は、矛盾体である。自由主義vs民主主義が本体・真理である。(ブッシュのいう民主化とは、だから、正に、資本主義的自由主義のイデオロギーであり、民主主義が出汁にされているのである。)
 とまれ、資本主義的自由主義と民主主義を分離する必要があり、前者を制御・統御する原理が必要である。それは何であろうか。非常に難しい問題であるが、一つは資本主義的自由主義よりも、すぐれた経済原理である。とりあえず、トランス・モダン経済原理と作業仮説しておこう。また、一つは、唯物論的認識の超克、霊的認識の普及であろう。これは認識の問題であるが、重要なものであり、前者のトランス・モダン経済原理を支える認識となると考えられる。
 では、トランス・モダン経済原理とは何だろうか。そのようなものがあるのだろうか。これまで、私が差異共振経済、差異共生経済、差異資本主義、共生資本主義等と呼んできたものがそれに当たると考えられるのである。プラトニック・シナジー理論によるトランス・モダン経済原理である。
 そう、以上の考察から、差異資本主義ないしは共生資本主義という用語は、自由民主主義と同じ矛盾体であるので、それは廃棄しないといけないだろう。差異共振経済、差異共生経済ないしは、以前使用した差異共創共生経済(差異共創生経済)と呼んでおきたい。便宜上、簡単に差異経済と呼びたい。(だから、資本主義は同一性経済である。)
 差異経済のポイントの一つは、生産し、得た利益(同一性)に対して、それを、差異共生価値(差異共振価値)と見て、独占化しないことである。森や自然を破壊して得た利益は、本来、自然や他者を内包した差異共生価値である。だから、それは独占することは不正なのである。差異共生価値としての利益なのである。だから、資本は差異共生資本となるのであり、投資も差異共生投資となるのである。
 資本主義企業は差異共生企業と転換して、差異共生投資をして、差異共生事業を展開することになるのである。おそらく、国家の役割は小さくなるだろう。この点では、新自由主義と同じである。そして、金融銀行は、差異共生銀行となるだろう。(このとき、銀本位制や無利子金融や消滅貨幣が役立つだろう。)
 問題は、差異共生経済の導入である。例えば、トヨタで考えよう。莫大な利益を上げているが、それは円安その他の影響でもたらされていると言えよう。トヨタの利益を差異共生価値と見ないといけない。環境破壊に対して、差異共生投資を義務づける必要がある。
 問題は、競争である。大企業から、差異共生投資をしていたら、競争に負けると言うだろう。しかしながら、莫大な利益を上げているのであるから、差異共生投資をしても、車の開発のための資本はあるはずである。もっとも、開発も差異共生投資に入るのである。よりよいものを目指すのは、差異共生主義に入る事柄である。差異は独創的でありつつ、共生主義なのであるからだ。
 ということで、資本主義的自由主義から差異共生経済への転換を簡単ながら説明した。
 

参考1:
自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自由主義(じゆうしゅぎ)とは政治思想 の一つ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9


Liberalism
From Wikipedia, the free encyclopedia

http://en.wikipedia.org/wiki/Liberalism





参考2:
ジョン・ロールズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ジョン・ロールズ(John Rawls, 1921年 2月21日 - 2002年 11月24日 )は、20世紀アメリカ を代表する政治哲学者 、道徳哲学者 。
1971年 に刊行した『正義論 』(A Theory Of Justice
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
John Rawls
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Rawls

Posted by sophio at 21:01:13Comments(0)TrackBack(0) │差異共生体経済/トランス・モダン経済

次元について:Media Point Planeと現象三次元空間:ディオニュソスとアポロ

2007-09-26
この問題は、アポリア(難問)である。今の段階で、最高の理論的難問である。今日、昼間、考えたことから考察したい。
 これまで、三次元空間を前提にして、次元形成の問題を考えてきたが、一番のポイントは、第三次元ないしは奥行きの次元にあると思われる。というのは、奥行きの次元は、遅れて発生したと考えられるからである。つまり、遠近法の形成は、近代の出来事であり、それ以前には、存在しなかったからである。そこで、三次元を前提にするのではなく、直感から次元問題を考察しよう。
 コスモスと言うとき、それは、森羅万象が一体となっている様態である。例えば、私は列車の窓外の真っ白な雪を頂いた立山連峰を見ているとしよう。列車は立山連峰に近づいてきて、窓外には、巨大な連峰が聳え立ち、私はその存在に圧倒される。私と立山連峰は一体となり、宇宙的なシンフォニーが奏でられる。ブルックナーの第八交響曲のようである。
 コスモス的体験とは、端的に、Media Pointの体験である。ここにおいて、心ないしは心身は垂直的経験をして、森羅万象とつながるのである。つまり、差異共振化するのである。
 そう、この体験の次元を問題にしたいのである、先ず。ここでは、他者と私は一体(一如)であるから、遠近法が成立たない。つまり、通常の距離感が消滅しているのである。だから、三次元空間はないことになる。直感では、二次元である。平面空間があると思う。思うに、これが、ガウス平面をつながるのではないだろうか。
 何故ならば、Media Pointにおいて、垂直的共振によって、私は他者(差異)と一体であるという体験をすると考えら、また、私の視線は、窓外の巨大に聳え立つ雪の衣を着た立山連峰、即ち、外的対象を捉えているので、実軸の出来事と考えられ、結局、垂直と水平との重なりの空間(=コスモス)があり、それは正に、二次元平面空間としてガウス平面と通じると推測されるからである。これを作業仮説としよう。
 つまり、現象発生論的に見ると、三次元空間ないしは四次元時空間の発現以前に、Media Pointの事象があるのであり、それは、二次元空間であると考えられるのである。
 では、次に、奥行き、遠近の発生の問題である。Media Pointにおけるコスモス的体験(ディオニュソス的体験とも言えるだろう)を鎮まると、主客分離が生起して、私と立山連峰は別々の存在になる。ここににおいて、遠近・奥行きが発生すると言えよう。それまでは、上下・左右が存在したが、これに前後が付け加わるのである。つまり、三次元空間が発生するのである。ニーチェの言葉で言えば、アポロ的なものが形成されるのである。これで、三次元空間の発生は説明がつくだろう。
 では、時間はどうなるのだろうか。Media Pointにおける私と立山連峰との一体感におけるコスモス体験において、私は、宇宙的シンフォニーが奏でられると言ったが、音楽の発生に注意すべきである。これは、正に、時間的なものが発生しているのである。エネルギー(エネルゲイア)が発生していると考えられるのである。つまり、コスモス体験とは、三次元時空間を意味すると考えられるのである。
 そして、Media Pointから物質的現象化によって、三次元空間が発現するのであるが、隠れたMedia Pointにおいて時間次元(=エネルゲイア次元)が潜在しているのと言えよう。これで、四次元時空間としての現象時空間が説明できよう。
 さらに考察すると、Media Pointにおける三次元時空コスモスと物質的現象界における四次元時空間との関係をどう見るべきなのだろうか。前者の方が高次元であるのに、次元数が少ないのはおかしいと言えよう。どう考えるべきなのか。換言すると、平面空間から立体空間への変化をどう考えたらいいのか。
 問題点は、どうして、遠近・前後・奥行きを付け加わるのかという点にあるだろう。それは端的に、Media Pointの垂直次元・超越的次元が消失するからであろう。その換わりに、同一性の遠近法が発生するということになるだろう。つまり、差異と差異との共振次元が消えて、同一性の次元が発生して、それが、遠近・前後・奥行きの次元になるのではないだろうか。
 思うに、この同一性の次元の発生が、純粋な三次元空間(近代的物理空間)の発生を意味するのではないだろうか。それまでは、上下は天地の次元であり、天は神の領域であり、地は被造物の領域であったし、また、左右も左は悪しき方向(英語の「邪悪な」のsinisterは語源では「左手の」を意味する)で、右(英語でrightは、右であり、正しいを意味する)が正しい方向であったろう。
 とまれ、Media Point的空間(ディオニュソス的空間)から同一性的空間(アポロ的空間)へと転換して、遠近・前後・奥行きが発生したと言えよう。イタリア・ルネサンス絵画の遠近法(背後に風景が描かれる)の発生である。
 だから、平面空間(三次元時空間)から立体空間(四次元時空間)への転換に関する問いに答えるならば、Media Pointにおける平面空間とは、超越次元をもつ平面空間であり、現象空間とは同一性に基づく立体空間であり、両者において、次元の意味が異なっているので、量的な比較は意味がないということになるだろう。
 正確に言えば、Media Pointの空間とは、量的な、同一性的な二次元空間ではなく、超越的な二次元空間である。言い換えると、超越的な平面空間が同一性的な立体空間へと転換したということである。言い換えると、超越的垂直が、同一性的垂直(上下)と同一性的遠近(前後:思うに、時間的前後ではないだろうか)を発生させたということではないだろうか。
 では、左右はどうなのだろうか。今のところは、作業仮説として、垂直から水平への転換において、最初に発生するのが、左右的水平性であるとしておきたい。つまり、Media Point Plane(Media Point平面)において、超越的垂直(超越的上下)と水平(左右)の平面空間が発生したと考えるのである。つまり、ガウス平面の発生そのものと言えるのではないだろうか。
 最後に、ドゥルーズとガタリの共著において、共立平面ないしは存立平面という概念がよく使用されていたが、思うに、この平面は、正しくは、Media Point Plane(メディア・ポイント平面)ではないだろうか。そうした方が、差異の共立・共振を明確に考えることができるのである。何故なら、ドゥルーズとガタリの連続的差異の共立の考え方では、差異の同一化がもたらされてしまうからである。
 今はここで留めておきたい。

Posted by sophio at 21:09:28Comments(0)TrackBack(0) │メディア・ポイントMedia Point

輪廻転生について、又は、Media Point的阿頼耶識(あらやしき)について:新輪廻転生仮説

2007-09-02
Media Pointにおいて、超越論的同一性構造が形成される。これがフッサールの超越論的主観性の字義通りの意味である。(もっとも、フッサールは、実質では、超越性に達していた。)
 このMedia Pointにおける超越論的同一性構造(以下、超同構造)が同一性=物質現象界を発現させていると考えられる。可視界とは、この超同構造が現出させているのである。だから、カントは正しい。(ただし、主観性というよりも、ハイデガーのように存在においてと考えるべきである。もっとも、正しくは、Media Pointにおいてであるが。)「物自体」は超同構造に基づく限り、認識できない。
 物質とは、当然、「物自体」ではない。それは超同構造が把捉した現象に過ぎない。
 では、「物自体」とは何か。それは、端的にMedia Pointだと思う。世界、宇宙の「物自体」、本体、真如(しんにょ)とは、Media Pointである。汎Media Pointである。【だから、前ソクラテス期のタレスが、大気は神々に満ちていると言ったのは、正鵠を射ている。神々は、諸Media Pointsないしは、多Media Points、ないしは、Poly Media Points or Multi-Media Pointsである。だから、多神教の方が、一神教よりも、現象的には、正しいのである。一神教は唯一のMedia Point, the One Media Point, the Only Media Pointを説くことになるが、それは、イデア界としての即非差異としては言えるかもしれないが、それはMedia Pointではなくなる。だから、超越界の即非差異を唯一神、そして、Media Pointを神々とすることは可能であろう。しかし、私の考えでは、唯一神とは、Media Pointを指しているので、多神教的である。D. H. ロレンスは、瞠目すべきことに、聖書の神は多神教的であると自信に満ちて唱えている。考えれば、ヤハウェとエローヒーム(神の複数)が存しているのである。だから、聖書の神とは、Media Pointの神々ではないだろうか。これは、ギリシア神話の多神教に通じるのではないだろうか。当然、八百万の神々にも通じよう。(p.s. だから、一神教において、混乱があるだろう。唯一神とは、本来、超越界の超越的即非差異であり、本来、静態的であるが、即非差異の中間に空虚をもつために、動態化すると私は考えている。しかし、聖書の神は、Media Point的なエネルゲイアの神である。それは、多神教でなくてはならない。つまり、一神教とは、超原点においては、正しいだろうが、エネルゲイアである Media Pointにおいては、誤りである。多神教的でなくてはならない。脱一神教化が必要である。そう、私は、以前から、ポスト・キリスト教西洋文明を唱えている。)】
 おそらく、諸Media Pointsが森羅万象、万有を満たしているのであり、単体において、一つのMedia Pointないしは複合したMedia Pointを知覚・認知しているのである。しかし、Media Pointに内在する超同構造によって物質現象が生起して、真実在、本体、真如、即ち、Media Point「宇宙」本体を認識できないのである。(もっとも、今日、天体観測技術の向上によって、宇宙の穴が発見されていて、それが、宇宙のMedia Pointであると想定できるのである。)
 物理学で言うと、量子力学あh,まだ、物質主義に囚われていて、量子の本体を捉え損ねていると考えられる。量子とは、素粒子とは、Media Pointの様相ないしは様態である。超・量子としてのMedia Pointである。(PS理論は、Media Point現象学とも呼べよう。)
 では、本論に入ろう。阿頼耶識(あらやしき)、並びに、輪廻転生とは何か。阿頼耶識とは、端的に、Media Point様相と言えるのではないだろうか。もし、阿頼耶識=Media Pointとするなら、Media Pointの記録・記憶性はどう説明できるのだろうか。(プラトンの想起説を思い出す。キルケゴール/ハイデガーは反復説である。オカルティズムでは、アカシャ年代記Akashic recordsに相当する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 )思うに、現象(界)は、Media Pointと他のMedia Pointとの交信によって生成消滅している。おそらく両者から電磁波等が発出されて、相互形成する。超同構造の光と別の超同構造の光との交信で、知覚・認知が生じる。問題は、超同構造におる感受性・感応性である。言い換えると、感覚とは何かである。それは物質に関係した同一性の感覚、光の感覚である。しかし、不可視の差異・身体がある。あるいは、端的に、Media Pointの発信する超・量子がある。光/闇の超・量子である。思うに、総体では、Media Pointは同一性を知覚・認知するだけでなく、光/闇の超・量子を「感受」している。意識と無意識と言ってもいい。
 具体的に考えよう。あるMedia Pointが、超同構造による同一性主義の自我によって、「悪」を他者にはたらくとしよう。このとき、自我と結びついている超同構造はMedia Pointのもつ即非差異共振様相を阻害、「傷つけて」いると言えよう。Media Pointの根本・普遍的な即非差異共振調和様相に対して、否定相が刻印されると考えられる。このような事態が阿頼耶識と共通することではないだろうか。ここでは、同一性中心主義(自我主義・利己主義)的な害悪を、Media Pointに印刻しているのである。その事象は無意識に形成される。これが業熟(カルマ)となると考えられるのである。あるMedia Pointの同一性=物質身体(肉体)が消滅しても、Media Pointは不滅であると思われる。時を経て(ハイデガーの用語を転義して使用すれば、時熟して)、Media Pointが新生・復活する。輪廻転生である。そのとき、過去世(過去生、前世)のMedia Pointの記録・記憶・「アーカイブ」・「情報」・蓄積が作動する。過去の借り、「負債」を支払うのである。
 では、どうして、「死」の様態で学ぶことができるのか。それは、死んだとき、Media Pointは超同構造を消滅させて、Media Point本体へと縮減・復帰する。そして、Media Point本体の意識(現世においては、無意識であった)が活動して、生存中、作った否定的刻印・蓄積を認識すると思う。即非差異共振調和という普遍的価値基準から、己の現象界(現世)における諸行為が吟味される。そして、「裁判」され、「判決」をされる。このMedia Point本体における「裁決」(自己裁決)による知・情報が来世へともたらされるということになると考えられる。こう考えると、Media Point的輪廻転生論は、仏教を超えている。仏教は輪廻転生から解脱(げだつ)を説くからである。
 ということで、今のところは、これで新輪廻転生仮説を提示したこととしたい。

参考1:
過去生の記憶
「生きがい」の夜明け

生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

飯田史彦(福島大学経済学部助教授)

商学論集第64巻第1号1995年9月より「はじめに」と「おわりに」を掲載し、本文については見出し部分を掲載したものである。


はじめに

私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で、「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。

元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。

ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけではなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。

そこで私は、ある個人的体験を契機に知った待殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話をしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。私は間違っていました。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりでなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は、「これで何も怖くなくなりましたしこれからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」と喜ぶのであった。

その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する遠年の科学的研究成果の内容であった。私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観をなくしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに超えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたび、私はそこに何か偉大なカの介在を感じないではいられなかった。

http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai3.html


参考2:輪廻転生google
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&q=%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

Posted by sophio at 01:03:33Comments(0)TrackBack(0) │新輪廻転生仮説

村上春樹の日本語は機械的で、不自然である。彼の文体は日本語言語意識を破壊する。

2007-08-22
村上春樹の『ねじまき鳥クロニカル 第1部 泥棒かささぎ編』を読んでいるが、先に触れたが、声の文体と身体性の希薄さを感じているが、違和感を感じつつ読んでいて、日本語が不自然であると感じた。とりわけ、会話の日本語が不自然であると思った。なにか、機械が話しているような人工的な日本語である。言語機械が話しているようである。日本語の会話の不自然さが、おかしさを直接生んでいる原因だと思った。
 例をあげて実証しよう。次は、加納マルタが主人公の岡田亨に電話してきた場面である。

『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです。岡田亨です」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない。
「それでは本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します」
「加納クレタ?」と僕は乾いた声で言った。
「妹です。先日写真をお見せしたと思うのですが」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです。妹が、私の代理としてお宅に伺います。一時でよろしいでしょうか?」
「それはかまいませんが」
「それでは失礼します」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155


一見何の変哲もない、ごく普通のように思える電話での会話である。日本語の文法がおかしいわけではない。しかし、注意するとおかしいのである。以下、私が添削する。


『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです(⇒はい)。岡田亨です(⇒不必要)」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで(⇒ところで、不躾で失礼しますが、あるいは、⇒ところで、突然ですが)本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない(⇒いいえ、ありませんが)、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない(⇒持たなかった)。
「それでは(⇒それでは、まことに突然で、失礼しますが)本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します(⇒妹の加納クレタをお宅にお邪魔させていただきたいと思っていますが、よろしいでしょうか)」
「加納クレタ?(⇒失礼ですが、加納クレタってどなたでしょうか)」と僕は乾いた声で言った。
「妹です(⇒私の妹です)。先日写真をお見せしたと思うのですが(⇒先日写真でお見せした妹ですが)」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです(⇒加納クレタというのが妹の名前です)。妹が、私の代理としてお宅に伺います(⇒伺うことになります)。一時でよろしいでしょうか?(⇒一時にお伺いしてよろしいでしょうか?)」
「それはかまいませんが(⇒ええ、かまいませんが)」
「それでは失礼します(⇒それでは、勝手なお願いをして失礼しました。よろしくお願いします)」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155

(⇒・・・)の箇所が私の添削である。ざっと添削したので、完全ではないが、それでも、村上春樹の文体が、不躾な、機械的、無機的な言語であることが理解されるだろう。そう、端的に、敬語が崩壊しているのである。恐ろしい悪魔的な作家である。日本語/日本破壊の国賊である。

Posted by sophio at 18:54:03Comments(0)TrackBack(0) │村上春樹批判

差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

2007-05-06
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。

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連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性

2007-03-29
先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非的エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるあろう。ドゥルーズやデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。

Posted by sophio at 19:54:35Comments(0)TrackBack(0) │プラトニック・シナジー理論
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