石町暮色(1)
2006-03-14
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石町暮色(1)
ウチが寝てゐると、またまたオヤジが廊下をそつと忍び寄つて来る気配がしたんや。あいつまた来よつたのか、それにしても母ちやんに見つかつてまた一悶着が起こるのは厭や。ウチは睡くてしやうがなかつたけど敷団を這ひだし、よつんばひのまんま縁側にでて京子の家に行くことにしたのんやわ。
娘をなんと心得てゐるのか、オヤジは近頃しばしばヘンタイ的な行為をするやうになつたんや。年のせいかも知れへん。上半身を裸で寝てゐやうものなら、オヤジの奴は障子の陰からじつと窺つて、生唾を飲み込んだりしてゐるのが良くわかつて情けない。
まあ、そのくらひなら情けないだけで良かつたのやけど、ある夜の丑三つどきにパンツに手をかけてきやがつた。最初は流石にびつくりするやら呆れかへるやらでボーッとしたけど、気をとりなおして胸ぐらを思ひきり蹴りつけてやつたんや。
肋骨にヒビが入つて、オヤジはだいぶん整骨院がよひをした。
オヤジはウチの目の前でも平然と、階段から落ちたのだと人に説明してたわ。これには二度呆れたけど、情けない気分の方が大きかつた。せやけどそれで終わったわけではなくて、オヤジは同じふるまいを二度、三度と繰りかえす。
それでも一応オヤジやから、あれ以後は肋骨を蹴り飛ばしてはゐないのんや。股間を蹴り飛ばすことにしてるのんや。けれどもこれがオヤジのヘンタイ化のまざまざとしてゐるとこなんやけど、それをやるとけつたいな笑ひを浮かべて、明らかに悦んでゐる風や。気持ちが悪いつたらありやあせん。
母ちやんが勘づいてワメきちらしたんや。ウチにまでホウキを逆手に持つてなぐりつけてきたのには、参つたわ。ナグサメやうがないぢやないか。最初はウチが納得づくのことかと思つてたみたいやけど、肋骨をへし折つても懲りんのは病気なんやと言つてやつたら、あれはあんたがやつたことだつたのかいと言つて、その辺はやつとわかつたみたいや。
母ちやんには気の毒やけど、こないな状態になつたのにはそれなりにわけがあつて、ほんでそれなりのわけのちびッとには自分にだつて関係あるかも知れへんぢやないか。ツレアヒなんやから、ヘンタイになる前に手を打つべやろ。母ちやんだつてどうしたらええのかわからんのやらうけど
。
ホウキの柄でできたタンコブの痛みをこらへてゐたら、くやしくてくやしくてオヤジも母ちやんも包丁にかけてやらうかとまで思つたけど、一晩たつたらバカバカしくなつたんやわ。
シンジョウのブタはその話しを聞かせてもエヘラエヘラしてたわ。案外あいつも自分とこの娘のパンツに手をだしたりしてゐるのかもしれへん。博打うちなんて言つても他愛がないちうわけやわ。あいつはさういふとこがあるのんや。娘をどうとかするといふ事しか考へられん程度のケダモノみたいな奴や。博打うちやら殺し屋と言つてもどこまでがホンマなのかしらん。
ブタの娘はこれが信じられんくらゐにかわいいや。まあ、ウチが子供の頃の写真と比べても見劣りせんくらゐにかわいいんや。どつかの子をかどわかして来よつたのかも知れへん。とんでもない奴。あいつならやりかねん。最初は毛色が変わつてゐると思つてつき合つてゐたけど、だんだん底が見えてきたんやわ。あれはやつぱりただのブタや。もう二度と、あないなブタの小屋には行くもんか。
娘は殆ど口をきかん。やけどウチにはなついてゐて、髪をすいてやつたらウチに寄りかかつて甘えたんやわ。色が白くて、唇がきれいな桃色をしてゐるのんや。目は桃の種ほどもあつて、のぞきこむと鏡のやうにウチが映つてたんやわ。
駄菓子を買つてやつた店のバアちやんが、これは乳飲み児の時分に、カツカツ息ができる分の米の汁しか飲ませてもらはなんやんや。やからこないに、口もきけんやうになつたんやと言つたんやわ。ウチはびつくりしてバアちやんを見たんやわ。口をきかんのはおとなしいだけよ、と言つたけど、確かに五つにしては変や。かわいさうやけど、もう、あそこにも行きたくないわ。
(続く)
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山に向かいて云うこと無し(1)
2006-02-12
(1)
なにとかうじ吟助は、末妹の佳矢と二人で、近隣との交際も極めて乏しく、村の北はずれ、雑木の林に草庵をかけ、清幽の日常を送っていた。
台地の村で、吟助の草庵は、円錘台の地形の側面にあり、勾配にへばりついている格好であった。
村へ出るためには、その斜面の、木々の間に続く、細路を上らねばならぬ。
北向きの斜面とは言え、村人のように、農を営むでも無い、吟助にとって、この草庵の位置は、真冬の、日当たりの少いことを除けば、不満のある筈も無く、とりわけ、眺望の開けた、北側の風光が気に入っている、吟助にとって、幸せな居住地と言ってよかった。
北の方角には、なにがし山脈の青峰が、四季折々に、その青みに、微かな変幻をほのめかせて、禿山や雑木に埋められ、鈍重に転がっている、近くの山々の、上方はるかの空に、連なって浮かんでいる。
空の滴が凍ったような、透明な青色の峰である。
冬には、峰の色は一段と濃縮された青色になり、岩塊や樹木が、その山肌を埋めているとは、到底信ずることが出来なかった。
冬の厳寒が凍らせた、氷塊のようであった。
そう思えば、吟助は、夏には、それがしめやかに溶けだし、消えてしまうのではなかろうかと危惧し、その思いにも、ひそかに喜びを覚えていたのである。
青い峰は、溶けなかった。
時には白っぽくなり、時には濃紺色になり、時には空の色と殆ど同じになって、識別するのが困難な程になりながらも、やはり北の空に浮かんでいた。
吟助は、日がな一日、何をするでもなく暮らしている。
ぬれ縁に寝転がったり、部屋に閉じこもったり、たまさか雑木林の中に行って、書物を繰ってみるの他は、する事が無かった。
書物も、好きで繰ると云うのではない。
手なぐさみであった。
朝、目を醒まし、飯を食い、するともう何もする事が無く、手持ちぶさたに、書物を開き、二・三枚読んで、睡気がやって来れば、書物を閉じて、枕にして、うたた寝をすれば、正午の飯時である。
吟助は、畳にじかに横たわっていた為に、かるい痛みを覚える背中、首筋を、とんとんと叩き、不快そうな顔付きで、昼飯を食うために、卓につく。
やおら箸を取り、まづさうな顔つきのままで、口に運ぶのであるが、実際は、表情とは裏腹に、結構食欲もあり、うまいのである。
然し、ただ、うたた寝をしただけで、食欲のみが旺盛であるというのは、実妹ではあっても、やはり佳矢に対して、面目無く思われる故、演技を繰り返していたのではあった。
朝、食った飯はどこへ行ったものか。
吟助とて、それは不思議に思われるのである。うたた寝に費やされるものであろうか。
不可解であった。
佳矢は表情を変えない。
ほとんど、食卓にうつ向くようにして、飯を口に詰め込んでいる。
その表情も、やはりまずそうであるのだが、内実はいかようであるのか、吟助はソッと窺つてみたりするのだが、無論黙っている。
吟助は四杯、佳矢は三杯食つた。
二人は、各々孤独にまずそうな顔で、うまい昼飯を食い終えたのである。
それはもう五年来の、二人の日常そのものだった。
何故、かやうな生活が続いて来たのだろう。
吟助は、折々に、と言っても、うたた寝のあい間にではあるが、考える。
まずい生活であると、思うのである。
第一に、二人は兄妹とは言え、この五年来、満足な会話もしたことが無かった。
顔を見合わせて、笑みを交わすことなども無く、さりとて喧嘩をするでも無かった。
何故であるのか、吟助にはわからぬ。
ただ、吟助は、妹がけむたいものになってゐるのを感じるばかりだ。
その理由を、切実に思案することも無いのだが。
(続く)
西瓜(1)
2006-02-07
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西瓜(1)
夏の夜更けの出来事や。
朝からしとしとと降り続けとった雨は、宵の口にようやっと止んだもんの、その時刻になっても蒸し暑さは変わらなかったんや。町中を巡る通りは舗装されて、わずかの草むらしか無いのに、それでも家の軒とか壁とかの間から、虫の声が響いとったんや。
日がな一日の降りで、乾ききった昨日までの町が、じめじめ湿ってかえって虫たちは活気づいたもんやろか。コオロギやキリギリスやカネタタキが路面や屋並に反響するほどに姦しく鳴き交わしとったんや。人は寝静まって、車も通らず、野良犬一匹さえも見えなかったんや。
暗い夜やった。
午前一時を回った頃や。こん時まで漆黒に夜の空を塗りこめとった厚い雲に亀裂が走り、濃紺の夜空の地肌がのぞいて、心なしか虫の鳴き声に一段と峻烈さが加わったようでもあったんや。そうしてその虫の声に、おぼめかしい音が交じりだしとったんや。それは風の流れる音にも聞こえたけど、布地を互いに擦り合わせる音みたいにも聞こえたんやわ。
郵便局の煉瓦造りの赤壁が、闇の中ではただの黒い固まりや。通りはその壁と雨戸を閉じた畳屋の建物に挟まれ、ほんで三叉路に分かれとるんや。右側を入れば平屋造りの貸し住宅の軒並が続き、左側を入れば畑中の道になるんや。かそかな音は、その三叉路の左側、畑の中からしのび出てくるようやったんや。
某は三叉路まで攻めて来よったとこで、尻のポケットからハンカチを取りだして、顔に吹出物のようにふきだした汗を拭ったんや。白シャツの半袖から延びた両腕にも、汗は粒をこそ結ばなかったものの吹き出しており、それも丁寧に拭い取ったんや。汗は水油みたいにねとりと肌にぬめるのやったんや。
某は軽い頭痛を覚えとったんや。彼はだいぶん酒を飲んでいたのやったが、なにせ通常ならばとうに寝所についとる時刻に最終列車に揺られ、そうして駅から更にある道のりを歩いて来よったとこやったから、酔い心地の快さはとうに失われとったさかい。先刻まで頭の中は真綿を詰め込んだようにしびれとったのやけど、今は鈍痛が波みたいに間段をもって頭頂から首筋を叩くのやったんや。
某は知人の病気の全快祝いの宴に呼ばれ、その帰り途中なのやったんや。その知人は根っからの酒好きで、入院中はかたく酒を断たれとったため、許可が下りるや否や友人を集めてこん時までの鬱憤を晴らそうちう祝宴を開いたのや。
最も親しい友人である某が、しまいまでつき合わされ、たらふく飲まされ、帰途がこの時刻になりよったんや。友人は一夜を飲み明かそうと誘ったのやったが、某はそれだけはようやっとの思いで断り、最終列車に乗ったんや。
三叉路までたどり着いて某は少なからず安堵したんや。胸苦しさもなんだか薄れてきとったんや。もう家はジキのとこなんや。三叉路を右に入り、道端の借家の一軒が某の家やった。三叉路から二百メートルほど入ったとこであるんや。真っ直ぐに延びた通りの両側に、同じような造りの家並びが延びとるんや。たった一本の街燈が橙色のわびしげな光を発しとるが、丁度その街燈の向かいが某の家やった。
ようやっと眠ることが出来るかと思えば某の歩調は自然とゆるんだんや。もう、急ぐこともあれへん。某は汗を拭ったハンカチをくしゃくしゃのまんま尻のポケットに突っ込み、そうしてふと右手をポケットに入れたその姿勢のまんまに動きを止めたんや。
定かではおまへんが、某は丁度、片栗粉を掌中で握り締めるときに起こるような音を聞いた気がしたんや。某は耳を欹てたんや。確かに音は聞こえたんや。聞きなれへんが、何ぞの鳥か虫かの声やろうか、と某は思ったんや。
その時になって某は初めて、その覚束ない得体の知れへん音のほかは、一切の音が失せとるのに気がついたのやったんや。町中を抜けて来よったこん時まで、あれほどに虫の鳴き声が姦しかったのに、町を外れて畑のそばにやって来よったとこで途絶えてしまっとったんや。それでかすかな音も、某の耳に留まったもののようなんや。
某は右の道に入り込んでいたのんやったけど、何気なく数歩後戻りし、体を捻って左の畑を眺め渡したんや。畑は闇の中にあり、ひときわ黒く野菜の影が見えるばかりなんや。道と畑は透垣で仕切られてて、自然薯の蔓が絡みついとるんや。
某はこの闇の中では、かすかな音が何物から発しとるのか見定めることは出来まいと思いながらも眺めたんや。垣根の向こうは背の高くなりよった葱や大根が植えられ、その畝合いには今年幾度めかの小松菜の新芽が伸び初めとるのを、某は知っとったんや。
その小松菜のあたり、闇の中ではその小さな芽は見定めることが出来ないけど、白いものがあるのを某は認めたんや。某は垣根から上体を乗り出して、その白いものを見極めようとしたんや。かすかな音は相変わらず畑のどこぞらか泌み出るように鳴り続けとるんや。それは時折、キュッキュッと断続したかと思うと、あたかも仔供のため息に似た、柔らかに震える弱々しい風の摩擦音みたいにも聞こえるのんやった。
某は垣根の切れ目から体を滑り込ませて畑の中に入り、その白いものを見定めようとしたんや。用心深く畝を踏まぬように一歩一歩地面を確かめて歩いたんや。どうやらそれは一枚の白い布であるらしかったんや。前屈みになって、そのものを手にしようとしたんやったけど、いきなり乾いた荒々しい音が頭上で鳴り渡って、身を竦めて見上げた某の目に、真っ黒な塊が空を横切ったのが見えたんや。夜鷹やったんや。某は一息、息を太く吐き出したんや。
某の足元の白いものは、どうやら男物のシャツらしかったんや。それは丁度、風呂敷包みみたいに何ぞを包み込んでいたんや。襟元は夜目にも白く、手触りも糊がきいていてピンとしており、新しいもののようやったんや。某はシャツを持ち上げたんや。かすかに人間の体臭がしたような気がしたのは錯覚やったろうか。
ゴロリと、持ち上げたシャツの中から、固い丸いものが転がり出たんや。青臭さと、甘味の混じり合った匂いがプンとしたんや。息を呑んでよくよく見つめれば、それは西瓜やったんや。一抱えもありそうな大きな西瓜であるんや。一部分がグシャリとつぶれ、赤い果肉がのぞいとったんや。どなたはんかが捨てたものやろうか。某はシャツだけならばどこぞの物干から風に飛ばされて来もしようけど、それがあたかも風呂敷みたいに西瓜を包んでいることに不審な感じがしたんや。
某は立ち上がって、戻ろうと思ったんや。考えたとこで大したことがあるはずもないんや。たかがシャツと西瓜であるんや。例の音は・・・・・某ははっとして固唾を呑んや。いつしかあたりはまた天から降るように、そうして地からも湧き出るように虫の鳴き声の饗宴となっとったさかい、例の音はその姦しい音の中から聞き取ることが出来なくなっとったんや。
虫は某の歩く音を警戒し、いま、その警戒を解いたもんやろ。某は足元の畝を用心深く見つめながら、そろりそろりと戻り始めたんや。芽を出したばかりの小松菜は、闇の中では見分け難いんや。某は顔を地面に擦らんばかりにして、確かめつつようやっと垣根までたどり着き、やれやれと上体を起こし、顔を挙げ、いきなり頭から氷水を浴びせられたように息を止めてその場にへたり込んでもうたんや。
自然薯の絡みついた透垣の上から、ぼうぼうと髪を伸ばした、真っ青な顔をした男が、じっと某を見下ろしとったんやさかい。真っ青な顔やったんや。闇の中に、燐が燃えるように男の顔はボッと青く浮かんでいたんや。
肩まで届きそうな黒い髪が一房、額から顎にかけてバサリと垂れ、ポッカリと抉ったような眼窩の底に、目玉は見えなかったんや。鋭利な刃物をサッと横に走らせたみたいに、唇は真紅に際だって、頬から頬へ糸みたいに細く、薄く、切れ込んでたんや。真っ青な顔は、一呼吸、二呼吸の間、某を見つめ、そうしてスウッと垣根を離れたんや。某には、その青い顔の他、首より下は透垣のために見ることは出来なかったんや。
某はちーとばかしの間立ち上がることが出来なかったんや。畑の土にまみれたまんまで、耳の底で、ドッドッと鳴っとる血液の流れる音を聞いとったんや。何の考えも浮かぶことはなく、雷にでも打たれたかみたいに、体を硬直させとったんや。
十分程も地面に横たわり、ようやっと某はヨロヨロと立ち上がったんや。胸が締め付けられるように苦しかったんや。脹脛から太股にかけて、まるで腓返りでも起こしたあとみたいに、鈍痛がしたんや。首筋が大男の手の平で鷲掴みにされとるようにつっぱり、頭が回らなかったんや。そっと首をもたげ、垣根の外を眺めたけど、どこにも人の影は見えなかったんや。某は、はやる気持ちで、駆け出したいのやったけど、全身から力が抜けており、一歩一歩を進めるのさえ容易ではなかったんや。
後ろを振り返り振り返り、某はようやっと例の街燈の明かりを見ることが出来るとこまで息を荒ませながら歩いたんや。虚脱感に逆らって、某は懸命に歩いたんや。もう街燈まで数十メートル程のとこにやって攻めて来よったとき、その橙色の光の中に、ボッと人影が現れたんや。それは某の細君やったんや。某は心の底から深いため息を吐き出したんや。細君は某が歩いて行くのを、光の中でじっと見つめとったんや。近寄ってこなかったんや。声も出さなかったんや。表情の動きは、まだ某に見えなかったんや。頭上から光を浴びとるので、細君の顔はエライ影が濃く、それでいよいよ表情を判らなくなっとったんや。
某も声を出さなかったんや。せやけど腹の底から湧き出るような安心で、某はちびっとの余裕を取り戻し、ポケットからハンカチを取りだそうとしたんや。確かにそこに入れた筈のあのハンカチは無かったんや。畑の中に落してきたのかも知れへん。
某は右の手の平で顔の汗を拭い、街燈の方を見ると、細君は光の輪の向こう側に移動しとったんや。なんで薄暗い方に行ったのやろうと某は訝しく感じたけど、やはり声はかけなかったんや。某と細君は光の輪をははんで向い合っとったのやけど、もちろん細君の方が光に近いので、着物の白さはボッと暗がりの中に浮かんでいたんや。
某は更に近付き、もう細君との間は十メートル程やったんや。二人の間には街燈の光の輪があったんや。その距離になっても、細君は動かなかったんや。うつけたように、じっと某の方を眺めとるだけやったんや。某は流石に不審に思い、おい、と声をかけ、それと細君の顔が白い着物の上でボッと青白く光りだしたのはいっぺんやったんや。
それはもはや細君の顔ではなかったんや。
今しがた某が畑の中で見た、男の顔になっとるのやったんや。細くて長い顔にばさりと斜めに髪がかぶさり、その合間から瞳の無い眼窩のくぼみが某を凝視しとったんや。頬はノミで抉ったようにこけ、その頬から頬にかけて朱の薄い唇が刃物の傷口みたいに走ってい、そうして顔全体から発する光は燃える燐のそれに似とったんや。某は瞬間、息を吸い込むことができなくなり、躯全体をもがかせたけど、そのまんま横倒れに路上に倒れ、一切の意識を失ってしもたんや。
(続く)
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十九歳・夏(1)
2006-02-04
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十九歳・夏
(1)
正午のサイレンが、赤く銹ついたトタン屋根を震はせて鳴り響いた。
ひしめいて並ぶバラック。
壁に貼りつけた海鼠板が、今にも剥れさうにたわんでゐる。割れたガラス窓にはスレートのかけらや、段ボール紙や、ベニア板がべたべたと打ちつけられてゐる。
二本の屋並びが一間程の幅の通りを隔てて続いてゐる。
一本は立派に土の上に乗つた並びだが、向かひ合ふもう一本の並びは水の上にのびてゐる。川の中に杙を打ち込み、板を敷き、その上にトタンや海鼠板やベニア板スレート、ダンボールさゑも総同員して囲んだ住まひの家並び。
このバラックの家並びは、それが挟んだ筒状の通りに入つてこそ、初めて二本の家並びが向かひ合つてできあがつてゐるのがわかるのであり、外観は例へば上空から見下ろしたならば、片側が川の土堤に、そしてもう一方が流れの上に突き出た、長い巨大なイモムシのやうに見えるだらう。
誰かが洗濯水を捨てたので、二人が並んで歩けば肩が触れ合ひさうになる通り・・・・といふよりもトタン屋根がついた抜け道は、泥々になつてゐる。
どうまちがへてか、ひとひらの風が、筒のやうなこの抜け道に入り込んで来ると、あそこの家のにほひ、こちらの家のにほひが、ごたまぜになつて、全ての並び家に分配されるしくみだつた。
一軒の家の便所がつまつて、うまい具合に川の流れに落ち込まないやうだと、この並び家に住む人々は、公平に全員が鼻をつままねばならない。
どこかの家でカレーライスを作つたり、フカの臓物を煮込むことがあれば、とにもかくにも匂ひだけは、住人全てが相伴に与れるのだ。
この家並びに住む人々は、だから皆がみな同じ匂ひだつた。例へ他人の家に入つても玄関口で、嗅ぎ馴れない他人の匂ひを嗅ぐことはなかつた。
正午のサイレンは、堤から百メートル程離れたところに建つてゐる屑鉄工場から湧き出たのだ。それは建物自体が屑鉄の堆積のやうだつた。うず高く積み上げられた屑鉄の山は、いがらつぽい酸味を含んだ匂ひを醸し、建物の壁・・・それも屑鉄の中からより出したやうなトタンのかけらをモザイクのやうに貼りつけたものだつたが・・・を半ば以上没してゐた。
いささかの風が吹くと、積み上げた屑鉄の山から赤銹の粉塵が舞ひ上がつた。それは建物をまぶし、川辺の雑草をまぶし、この家並びの住人の衣服や髪の毛をまぶし上げた。赤茶色の粉塵の色が、この界隈のありとあるものを淡く、濃く覆つてゐる。
工場の建物をとり巻いてゐる屑鉄の小山の間から、やがてゆつくりした足どりで男達の一団が現れた。
彼らは一様に濃紺色で統一されてゐた。大きな庇がついた帽子も、作業服も、ズボンも濃紺だつた。ただ履物だけは、ゴムゾウリであつたり、頑丈さうな皮の作業靴だつたり、ゴムの長靴であつたり異なつてゐた。
男達は互ひに甲高く話しながら、川の堤の上に横たはつてゐる彼らの家並びに向かつてぞろぞろと歩いてゐた。そのイモムシのやうに長い家並びのところどころに・・・丁度気門のやうに、イモムシの横腹に開いたそれぞれの住まひにより近い入口をさして、彼らは歩いてゐるのだつた。
夏の真昼の太陽の光は、この短い距離を移動する男達を慨嘆させるに充分な熱量だつた。白い激しい光だつた。
男達は自分の入るべき入口に目をやり、そしてトタン貼りの屋根の上で、空気が焼き上げられてぶるぶると震へてゐるのを見るのだつた。
外気には射すやうな痛みがあり、イモムシの腹の中の空気は纏はりつくやうなゼリーに似た重たさがあつた。酸つぱい匂ひがした。
男達は、ぞろぞろとこの刺激臭のあるゼリー状の空気の中に入り込んで来て、通りを移動し、一人二人と各々の住居に消えて行つた。
一群の男達が入つて来て、そして消えてしまつた通りにはいささかの空気の震動が残り、それもやがて鎮まつた。誰もゐない通路を低いうなりをたてて蝿が飛び交つた。
少年は鉄屑の赤い粉塵にまみれた帽子を頭の後ろにずらしてかむり、作業衣の胸をはだけて、まだ工場の入口に立つてゐた。汗に濡れた膚に風をあてやうとしたが、風は死んでをり、工場の中にゐるよりも一層汗が吹き出てきた。
彼の住まひも組み込まれてゐる家並びの上で、陽炎のやうに空気が搖れてゐるのを眺めながら彼は上着の袖をまくり上げた。
汗に濡れた腕には、鉄屑の銹の粉塵が付着してゐた。右手の人指し指で左腕にこびりついた粉塵をこすり落とさうとしたが、かへつて皮膚の中に赤銹が沈み込んで行くやうに思はれて止めた。
前屈みになつてズボンの裾を・・・その紺色の作業ズボンは膝の少し上のところで切りとられ糸がほぐれて房状になつてゐたが、さらに上にたくし上げた。脛毛にも銹の粉塵がまつわりついてゐた。
身を起こして両手を前で組み、それを突き出して大きく欠伸をした。それから大儀さうな足取りで家並びに向かつて歩きだした。
水色の塗料が半分以上はげ落ちた小型トラックが、ゆつくり工場に入つて来た。
運転台の屋根の高さをはるかに越す高さに積み上げられた鉄屑・・・洗濯機、自転車、石油缶、原形は何であつたのかわからないが、銹ついた鉄の板などが、からうじてワイヤーで荷台の上にとどまり、車の震動で粉塵をまき散らしてゐた。
トラックは少年の前まで来て、舗装されてゐない赤土がむきだした道のくぼみに左の前輪を落として大きく傾いた。積荷のてつぺんに積まれてゐた子供の三輪車が、振り回され飛び出しさうに見えた。
少年が、思はず数歩後退するほどの揺れだつた。運転台の男が彼を見て、おどけた表情をしてみせ、そして頭を左右に振つて笑つた。
少年は、ポケットから煙草をとり出してマッチをつけた。顎のあたりに、真昼の太陽の熱とは別の、球状の熱気が触れた。人指し指と中指ではさんだマッチの軸を、親指の爪ではじき飛ばした。白い光の中を、オレンジ色の小さな炎は弧を描いて飛び、乾いた路上に落ちる寸前で白い煙を吐き出して消えた。
肺に思ひ切り吸ひ込んだ煙はなまぬるく、かすかな刺激があつた。ゆつくり鼻と口から濃厚な煙を糸状にして吐きだした。
彼は暫く煙の動きを見てゐた。そのやうにしながら、背後から彼にかけられる声を待つてゐるのだつた。できるだけゆつくりと吸い、吐いた。煙草がその半分も燃えたころ、背後でトラックのドアが閉じられる音がした。
振り向くと、さつきの運転台の男がやはり煙草をくわへて出て来た。
男は少年に向けて右手をさし出して見せた。その手にはふろしき包みがある。それが彼の昼飯のやうだつた。少年は軽く舌打ちしてみせた。
トラックの男は剽軽な笑ひを見せた。それからくわへてゐた煙草を吐き飛ばし、堆く積み上げられた屑鉄に向かつて放尿しはじめた。
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叫び沢(1)
2006-02-04
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叫び沢(1)
私があの人に出会つたのは、ある初夏の暮れ方でござゐました。
私はその地方で「猫」と呼ばれてゐる一輪の荷車を押しながら、段々畑の阪道を登つてをりました。
荷車には十個ほども石油の一斗罐を積んでをりました。上蓋を枡落としに細工したブリキ罐でござゐます。
私の歩調に合はせて、それぞれの罐の細工の個所が、キイキイと耳底を突くやうな音をしきりにたてるのでござゐました。
坂道を八分方登つたところで、私はいつもその坂道を登るときにさうでありますやうに、この時もまた安堵の息をつき「猫」の手押し棒を握つたまま歩を休めたのでござゐます。
そこは大分眺望が開けてゐて、私の部落の四半分ほどを見渡すことが出来るのでござゐます。部落は私が立つてゐる段々畑のたたなはる小山と、雑木が山肌を包み込んだ定まつた名称とて無い山々の連なりとの間に細く長く続いてをります。
山脈に半分がた落ち込んだ太陽の光が斜めに部落に射し込み、たたずまひの影を際立たせてをりました。
物の影は深い溝のやうに黒く走り、光を浴びてゐるところは蜜柑色に光る浮彫りされたもののやうに見えたのでござゐます。
休息を切り上げ、私は再び手押し車を押して坂道を登り始めました。
ブリキの罐は再び鋭く姦しく鳴り始めます。
その音に驚いて草陰から野の鳥が幾羽も飛び立ちます。
もうすぐに今日の仕事は終はるのだと考へると気持ちは体の疲れとは裏腹にしだいに軽やかになつてくるのでござゐます。
自然に坂を上るのも速足になり、姦しい音は一段と高まつたやうでござゐました。運び上げた罐を畑のあちこちに埋める作業は明朝の仕事始めにするつもりだつたのでござゐます。
やうやうに坂を登り詰めますと、小山の上は平らかに開けてをり、そこに私の畑地もあるのでござゐます。
小山の頂の平地に、小さく私の畑も嵌め込まれてゐるのでございます。同じやうな雑殻が植ゑつけられてゐるとは言へ、細かく所有者が区分された小山の頂でござゐます。
向かうの畑中に働いてゐる人がをりました。
その人はブリキ罐の音を聞きつけたらしく、前屈みにしてゐた上体を起こし、私の方に振り返りました。
私には見覚への無い顔でござゐました。と申しましても、実はその人は顔を灰色の手拭ひで覆つてゐたのでござゐました。
一枚の手拭ひで頭を包み、更にもう一枚でマスクのやうに鼻から下を包み込んでゐたのでござゐます。
見ることができたのは目の周辺ばかりでござゐました。その上西空を背にしてをりましたので、その僅かに露した部分もはつきりとは見定めることはできませんでした。
私は部落の人々は全て知つてをりましたし、殊にこの小山で出会ふ人々については良く知つてをりました。
けれども何分にもその覆面めいた頬かむりでは、その人が誰であるのか判断がつきかねたのでござゐました。
私は無言で会釈しました。
握つてゐた「猫」の手押し棒を離しました。ひときわ姦しくブリキ罐が鳴り、そして余韻のやうに枡落としが擦れ合つてキイキイと鳴り、やがてそれも止みました。
あの人は、灰色のシャツに茶色のズボンを履いてをりました。
私の会釈には返事をせず、腹のあたりを右手で叩き、それはおそらくは土埃でも叩き落としたのでござゐませう、突然仕事を止めて私が登つて来た坂道とは逆の方にある道に向けて歩き出すのでござゐました。左手にはスコップをぶら下げてをりました。
一体、人はあのやうに仕事を頓座させることができるものでせうか。
畑で仕事をしてゐてそれに区切りをつける段に、あんな具合に仕事の仕上げやら明日の段取りやらを思ひ巡らすことを一切しないで(私にはさう見えたのでござゐます)、さつさと踵を返すといふ風に。
それは何かしら、私といふ他人がやつて来たのが邪魔だとでもいふやうな、そんな印象でござゐました。
私は妙な気がゐたしました。
後味が悪かつた。そして何だか不安な気がゐたしました。あのやうにこの小山の上で人に対したのは初めてだつたからでござゐます。
あの人は足速にずんずんと坂道を下つて行き、膝のあたりから腰のあたり、そして腹から肩のあたりと段々に小山の向かうに下りて行き、もう私からは首の上だけが見え残つてゐたところで不図歩みを止め、振り返つたのでござゐます。
黙つたままで私を見つめ、見つめながら坂道を下りて行くのでござゐました。
さやうでござゐます、あれがあの人を見た最初でござゐました。
(続く)
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犬の明日(1)
2006-02-02
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犬の明日(1)
風呂場で洗濯をしよると、隣家の庭先で、しきりに甲高い女の声がする。
「ケンタロー、ケンタロー、ケンタローや」
美佐子は、洗濯機の中で白いシーツがぐるぐる回つとるのをぼんやり見ながら、心の中でおや、と思つたん。声の主は明らかに、隣の山内家の奥さんであるのんや。その語尾がキンキンする声は、間違えようがありまへん。
言葉自体はそないに甲高くないのに、語尾だけがおもちやの鉄琴みたいに響くのは、不思議やと、隆夫が言つたんや。夫の言葉を思ひ出して、美佐子は含み笑ひをしながら、とこでケンターつてだれのことやろと思つたのや。
この借家に住んで一週間にしかなつておらへんけども、山内家の家族はみな覚えたはずやつた。五十に近いと思はれる、赭ら顔で、でつぷりと太つた主人。大学生の長男。高校生の次男。それに小学生の娘がゐるのんや。
長男は竹麻呂で、次男は雪之助やつたはずで、挨拶に訪ねたときに、隆夫がすげえ名前だ、といつたさかい忘れはせん。
美佐子は洗濯機から離れ、背伸びして、換気扇の横の小さな網を張つた窓から、隣家の庭を眺めたんやわ。
高さ一メートルばかりの生け垣で、山内家の庭と、こちら側の庭は区切られとるのやけど、向かうは芝生が手入れされて美しく、こちら側の庭は赤土がむき出して、オオバコやら雑草が生えとるのんや。
庭の草取りもしなくつちやあ、と美佐子は思ふ。
美佐子は背伸びした姿勢で、首を左に曲げ、せまい窓から庭の向こう端の、声がする方を探したんやわ。
門のそばに奥さんは、しやがんでいたわ。背丈も体周りも、美佐子より一回り大柄な人や。彼女はしやがむと、立つとるとき以上に堂々として見えたんやわ。
「ケンタローつたら、ケーンタロー。言ふこと聞くのよ。ケンタロ。ちやんとこつちにいらつしやい。ほら、スミレを踏んづけるやん。ダメや。こつちに来るのよ。ケーンターロー」
見れば花壇の中に、薄茶色の毛の子犬がゐるのんやつた。毛がパーマネントされたかのやうに渦巻いとる犬。顔がずいぶん四角く思はれたわ。犬は奥さんの方を、じつと見つめながら、花壇から動こうとしなかつたわ。時折所在なげに、足下の土をかいだりしとるのんや。
美佐子は声を出さないで笑つたわ。頑丈な奥さんと、おどおどした子犬の取り合わせが、しつらえられた、コントの一場面のやうに見えたのや。
それでも奥さんが腰を上げて子犬に近づかないのは、子犬をならし、教育しようとしてをるからやろうや。ちびつと子犬に同情したんやわ。あの声で、子犬はとまどつとるのかもしれへん。
洗濯機が止まつたさかい、美佐子は窓を離れたんやわ。
洗濯したものをもつて外に出ると、奥さんが腰を上げて美佐子に近づいてきたんやわ。
「中光さん、洗濯?だいぶ落ち着いた?」
美佐子は笑顔で頷いたんやわ。
「かわいいですねえ。気がつきまへんでしたわ。今日まで」
「なついてくれへんの。いやになつちやう」
美佐子は洗濯物を持つたまんま、山内家の庭に入つて、子犬に近づいたんやわ。犬は似げはしなかつたが、すこしもうれしさうではなく、まぶしさうに美佐子を見上げたんやわ。
「をととひ買つたのよ」
「買つた」
「さうや。ずつと前から目をつけてたの。ペットショップでね。をととひ思ひ切つて買つちやつたの」
「さうなんですか。気がつかないはずやわ」
「犬を飼うのは初めてやないんやけど、こないな風に買つてきたのは初めて。犬つてもつともつと慣れてくれるものかと思つたら、そないなことははないのね。おとなしさうで、気に入つたんやけど、なんやら人見知りするみたい」
美佐子は子犬の頭をなでてみたんやわ。
子犬は、やつぱり歯をむくでもなく、しつぽをふるでもなく、もやもやの毛の奥から、黙つて美佐子を見とるばかりやつたんやわ。
「隣にかわいい子犬がゐるわ」
夜、美佐子は隆夫に昼間の出来事を話してやるのんや。
「どないな犬」
「ケンタローつて言ふの。まだ慣れてへんみたい。うちにはもちろんやけど、奥さんにもよ。寂しさうで、元気がなくて、おどおどしてるみたい」
話しながら美佐子は昼間見た子犬を思ひ出しとるのんや。話しとると、なんだか心配になつてきたんやわ。
「子犬つて、もつともつと暴れ回るものなんやなかつたかしら。それが、ちつとも走りまへんで、病気みたいにじつとしとるのよ」
美佐子の眉の間に縦皺ができとるのを見て、隆夫は聞いたんや。
「犬、ほしい?」
「そないなことない。なんだか気になりよつたから」
隆夫は思ひ出す。
ずいぶん小さいときから、美佐子は犬や猫が好きで、庭先や縁側で、隆夫たち他の子供たちと遊ぶときとは異なりよつた表情をすることがあつたんやわ。道ばたで、美佐子が見知らぬ犬に、下手な口笛で誘つとるのも見たことがあるのんや。
隆夫は美佐子の顔をのぞき込んだ。左側の眉の上に、かすかな傷跡が残つとるのんや。猫にひつかかれたと、美佐子に説明してもろたとき、さういえば額に絆創膏を貼つた美佐子の記憶もある気がしたが、それは思ひ過ごしかも知れへん。
「犬は無理よ」
「無理?」
「だつて、あたし、あさつてからよ」
一昨日、美佐子は商店街の洋品店に仕事を見つけたと言つたんや。経理学校の帰り道に、貼り紙に気づいて店の主人に尋ねたとこ、小一時間、世間話のやうな会話をして、それが面接試験のやうなものやつたんやわ。
「あれは、やめようや。店には悪いけど、謝つて、やめにさせてもらおうや。俺が、もつともつと働くよ。俺も昼の仕事の当てがあるんだ」
「うちの学校のことなら、平気。うちは働きたいんだもの。昼に働いたりしたら、あんたこそ学校が無理になるわ」
「俺は学校をやめへんよ。二部に編入させてもらう」
隆夫は、やはりこれがいちばんええ方法だと決心できたんや。美佐子の額の小さな傷跡に、人差し指でそつとなでたんやわ。美佐子は黙りこくつて、なあんもないテーブルの上を眺めとるのんや。
「このごろケンタロー見えへんね」
垣根越しに隣家の玄関を見て、隆夫が言つたんや。玄関横に、緑の屋根の犬小屋があり、犬はその前で、いつもけだるさうな視線を、渦巻いた毛の奥からこちらに向けとつたんや。隆夫はその犬に、いつぺんもほえられたことがなかつたわ。甘えることを聞いたこともないし。犬の声を聞いたことがなかつたんやわ。兎のようやつたんやわ。
「ケンタロー?あら、教へてあげなかつた?ケンタローはね」と、美佐子は靴べらを使いながら、声を低めて言つたんやわ。
「逃げたのよ」
「逃げた?」
「さう、もう三日目。逃げてどこに行つたのか、わかりまへんて」
「つないでたやないか」
隆夫はあの兎のやうな犬の首に、巻かれた水色の首輪と、それにつながつとつた赤いひもを思ひ出しとつたんやわ。どちらも華奢な小型犬用のものやつたが、それすらもあの犬には過酷なものにも見えたんやわ。逃げ出す元気もなかろうと思はれたのやけど。
「あのひもを切つて逃げ出したとしたら、そないなに弱い犬やなかつたのかな」
「さうね」と、美佐子はちびつと笑ひ、
「でも、どこに行つたのかわかりまへんなんて、かわいさうに。危ない目に遭つてるかも知れへん」
「さうでもないかも知れへん。おとなしすぎる犬やつたけど、ほえる犬は、かまないとか、臆病だとか言ふやないか。それならあの犬は、もしかしたら、強いやつやつたかも知れへんし」
「さうだといいけど、でも、野良犬やら、かわいさうだわ。早く見つかればええけど」
三ヶ月の生活は、隆夫の顔に楽天的な色を取り戻させ、二人は元通りに心おきなくなりよつたんやわ。隆夫の二部への編入もでき、二人は学生夫婦ではなくなりよつたんや。
それは名称の問題ではおまへん。
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名前の迷宮(1)
2006-02-01
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名前の迷宮(1)
ロビーのソファーに、どぜう掬ひのN氏が座つてゐたので挨拶する。
右手にバンソウコウがかなり派手なので尋ねると、「毒虫にさされたんや」と言ふ。
先日妙にたくさんの蜂が飛び交ふのを見てゐたから、「蜂ですか」と聞くと、なんだかよくわからぬやうな返事をした。
どぜう掬ひには影響は無いのだとN氏は言ひ、子供が照れたやうに笑つた。
ウロ覚へだが、蜂に一度さされた人には、蜂の毒に対する抗体が無くなる場合があつて、さうした人は、二度めにさされるとショック死することもあるといふ。
既に、一度さされた経験があるので、「二度目の蜂」といふのを、心のどこかでかなり警戒してゐる。
蜂にさされたといふ人の話を聞くと、かくかくしかじかと説明したものかどうか迷ふ。
さうして説明をしたことは無い。
ウロ覚へで自信が無い知識だからでもあるのだが、そればかりではないのかも知れぬ。
この蜂といふのはもちろん大形の蜂のことで、あの褐色に黒縞のやつである。
あたりまへだが、ミツバチや、クマバチにも、さうした警戒をしてゐるといふのではない。
ミツバチなどは虻の親戚くらひにしか感じない。
クマバチはここのところ、見れるやうなところに出向いてゐない。
ところで蜂が大量に発生する理由がわからない。
野鼠の大量発生には、笹の実が関はつてゐるといふのは、物の本から得た知識だけではなくて、実際に見て知つてゐるのだが、蜂となると、ちよつと考へがつかない。
ここから少し想像をすすめるとハナシができさうだが、実にうつとうしいハナシになるだらう。
ミツバチやクマバチであれば、日照時間が多かつたために、花々が咲き狂つたためである、とかいふ屁理屈を、したり顔して言へるかもしれないのだが。
(続く)
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勉強堂から夢やへの界隈(1)
2006-01-31
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勉強堂から夢やへの界隈
(1)
「午後の五時」を、リフレインした、ロルカのように、丸いちにち、部屋にいる日には、正午過ぎから、しばしば時計を見、その時には、至らぬことを、繰り返し確かめる。
幾度となく、念入りに、気にしながら、「午後の、きっかり五時」には、つい、あらぬことを考えていて、またしても、心の臓が、飛び上がるような、目に会うのだ。
その音響は、この部屋にあっては、頭上からの、直撃、爆烈のように、轟き渡る。
音源が、どこであるか、住みついて、一年弱にもなるのに、俺は、未だ、確認してはいない。だが、おそらくは、二百メートルほど、離れてある、小学校の、給水タンクを屋上に乗せている、ひときわ高い、塔が、それだろうとは、見当をつけている。それらしい、建造物は、他に、何一つ、見当たらないからだ。
それにしても、これだけの距離がありながら、と、俺は、しばしば、あの轟きを思い起こしながら、灰色の塔を、もう、これまでに、四度も五度も、見上げている。
音響というのは、新世界の、あの「家路」という、唱歌で、なじんだメロディなのだが、どんな、ピーエー装置を、使っているものやら、突如として、炸烈する、ウルトラ・フォルテシモは、かけね無しに、仰天のショックを浴びせるのだ。
たかが、ワルガキを、校庭から追放する、方策のためばかり、だとしたら、ケタ外れにすぎる音量だ。
付近の、住人が、よくぞ、この音響に、連日、耐えられるものだと、不思議で、たまらない。この界隈には、最後の務めを、果たしつつある、しんの臓を、抱えている、と、見受けられる年寄が、実に、多いのだ。
かの人々にとって、あの音響は、俺などより、はるかに、シビアに、コタえるはずではないか。家路を誘うどころか、昇天を、強いるような、響きを、町内会、というものが、何なのか、実はよくわからないのだ、が、放任しておく、気がしれない。
あるいは、町内会の、会長たる仁は、老いたる、舅か、姑か、はたまた、昔の愛人かに、長年にわたって、悩まされている、人、なのかもしれない。
それも、正午から、繰り返し、その時に向けて、心構えを、あらたにしながら、まさにその時には、何かに、気を、取られている、その口惜しさ。
「午後の、五時、午後の、五時、午後の、きっかり、五時、で、あることは、かさねがさね、言い聞かせておきながら、俺は、今日も、ショックで、畳から、数尺ほど、体が、はじき、飛ばされたのである。
地下にねむる、作曲者とても、多分、身ぢろぎぐらいは、しているだろう。市中にしては、珍しくも、近隣で、鶏を飼っているらしい、啼き声を、聞くことがあるが、あれらが、毎日、一個の産卵をしているとは、思うことができない。
俺は、かような刺戟には、まるで抵抗力が無いのだ。ひたいから、油汗が吹き出した。
俺は病気になった。
真夜中、「復活」、して、飯を、食う気になった。
多少、涼しくなったから、でもある。
外で、飯を食うのには、気が重たく、ないことは無い。酒を飲むであろう、背中が痛くなるであろう、肝臓だか、膵臓だかが、半壊しているのだ。錠剤を、飲んで出る。
それにしても、外で飯を食うと、どうして、酒を飲むことに、なるのだろう。
とおったことの、ない、通りを選ぶ。
半壊しかけたような、酒場や、八割がたを、妖怪か、狐狸ばけものに、貸し渡して、あとの、二割がたを店に、しつらえました、と、い云うような、食堂しか無い、塵芥色をした、通りだ。それでも、なおかつ、通ったことのない、通り、入ったことのない、店というのが良い。フリの客、であるのが、良い。
通うにしろ、間隔を保つべきだ。そういう決まりを、作っているが、それで、ヒドい目にあうこともある。余りにも日を置き過ぎて、それが、ゴキブリの巣のような、店だったことを、忘れていたのだ。フリの客、で、あるためには、記憶を、しっかり保たねばならない。
それにしても、あの店はスゴかった。カウンターを、のべつまくなしに、複数チームの、ゴキブリが、同時に走り、しかも、営業停止をくらっていない飲食店、と、いうものを、実見したのだ。
走り回るゴキブリを、指でヒネりツブし、カウンターからハジき飛ばして、平然としているという、女も、実見したのだ。そのさまは、ひとむかしも、ふたむかしも以前の、ジャリどもが、ハナクソをハジき飛ばすような、まったく、自然な動作だった。俺は、カウンターから、身を離し、放心して、眺めていた。
「姉さん、昔は、マゴタロウムシというのを、子供の、カンには、ききめがあるっていって、食わせたそうだ。それから、どっかでは、ゴキブリも、マゴタロウムシと、おんなしに、食っていたって、いうのを、聞いたことないかい?」
俺は、マゴタロウムシの、いかなるものかは、知らないままに、思わず、そう言った。この姉さん、そうした土地が、ザイショではないか、と、思ったもので。
「あら、いやだ。マゴタロムシ?・・・・・なあに、それ。ムシを食べるですって、キャッ、気持ちわりー。いやな人ねえ、食べものを前にして。そんな話をするなんて。まさかお客さんの、イナカのことじやあ、ないでしょうね?」
お姉さんは、軽蔑した鋭い視線で、俺を正面からネメつけた。
「お便所どう。。。このあたりのおみせは、共同便所よ。共同便所は、あたし、ひとりが、毎日掃除をしても、誰かが汚して、そのまんま。あら、もうお帰り?ほんじゃ、こんだけ。勉強しときます」
俺が、大洪水あとのような、便所から戻って、勘定を払おうとしたら、姉さんは、イタチのような顔で、そう言った。
勉強されたお代を、カウンターに置いて、俺は、完璧にシラフのままに外に出た。
今度来たら、と、言って、まさか、そんなことがあるだろうか、『お便所、どう?』と聞いてから、便所に行こうかい、と、悲しいことをツブやいている、俺の背中は、丸くなっていただろう。シラフのくせに、足がもつれそうだ。
『お便所、どう?で、お勉強、お便所、どう?で、お勉強・・・』
つぶやけば、何だか、ああ、俺は、この界隈の通りに、ピッタリ、合いすぎるぐらいに、合っているのだろうか、と、つい思ってしまう。
以来、その店には、いっていない。ひそかに、しかし、あの店を、勉強堂と呼んでいる。
ケイセツ堂という、古本屋と、青春堂という、まむし屋、うなぎ屋のことではない。干物のマムシを売る店と聞いた、に、はさまれた店だったから。
しかし、今夜出向いた、この、一見して、『ゴキブリ通り』的な、この通りの店には、ゴキブリはいなかった。
ヤモリが出没しては、ゴキブリを、食っているのかもしれない。
しかし、ゴキブリもヤモリも見えないカウンターの中では、手の大きな美人が、ギョウザの皮を、こねては丸めているのだった。
くすんだ色の店で、美人がせっせと働いているのは、小さな店の奥に、深い世界が通じているようで、そこから、少しは風通しがあるような気分になる。
その広い世界というのは、暗い、幻のようなものだが、奥を開ければ、生ごみが散乱している裏通りに、直ちに、ぬけでる、気配があるよりは、食える。
実体の知れない、暗い、幻のにおいが、無いとすれば、その場合の、美人のドアイは、タカが知れている。多分。
酔ってしまった感想は、しかし、信用がならない。
酔って、ひらめいたる、ところを、メモし、翌朝読んだらひどかった。だから、暗黒の幻は、そうそうに切り上げて、ギョウザの、皮の粉のついた、大きな手の平に勘定を渡して、俺は、再び外に出た。
外に出てから、思い出した。どこやらの店で、聞いたことがあった。
何とかいう、美人の、オカマさんの店の、ぎょうざが、近在では、一番うまいという、評判を。
ハッとした、俺のかたわらを、今、まさに、肩幅が広い、長身の、金色染めの髪の、女ふたりが、腕を組んで通り過ぎ、たった今、俺が閉めた店のガラス戸を開いて、入っていった。
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November/2008
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