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叫び沢(1)
私があの人に出会つたのは、ある初夏の暮れ方でござゐました。
私はその地方で「猫」と呼ばれてゐる一輪の荷車を押しながら、段々畑の阪道を登つてをりました。
荷車には十個ほども石油の一斗罐を積んでをりました。上蓋を枡落としに細工したブリキ罐でござゐます。
私の歩調に合はせて、それぞれの罐の細工の個所が、キイキイと耳底を突くやうな音をしきりにたてるのでござゐました。
坂道を八分方登つたところで、私はいつもその坂道を登るときにさうでありますやうに、この時もまた安堵の息をつき「猫」の手押し棒を握つたまま歩を休めたのでござゐます。
そこは大分眺望が開けてゐて、私の部落の四半分ほどを見渡すことが出来るのでござゐます。部落は私が立つてゐる段々畑のたたなはる小山と、雑木が山肌を包み込んだ定まつた名称とて無い山々の連なりとの間に細く長く続いてをります。
山脈に半分がた落ち込んだ太陽の光が斜めに部落に射し込み、たたずまひの影を際立たせてをりました。
物の影は深い溝のやうに黒く走り、光を浴びてゐるところは蜜柑色に光る浮彫りされたもののやうに見えたのでござゐます。
休息を切り上げ、私は再び手押し車を押して坂道を登り始めました。
ブリキの罐は再び鋭く姦しく鳴り始めます。
その音に驚いて草陰から野の鳥が幾羽も飛び立ちます。
もうすぐに今日の仕事は終はるのだと考へると気持ちは体の疲れとは裏腹にしだいに軽やかになつてくるのでござゐます。
自然に坂を上るのも速足になり、姦しい音は一段と高まつたやうでござゐました。運び上げた罐を畑のあちこちに埋める作業は明朝の仕事始めにするつもりだつたのでござゐます。
やうやうに坂を登り詰めますと、小山の上は平らかに開けてをり、そこに私の畑地もあるのでござゐます。
小山の頂の平地に、小さく私の畑も嵌め込まれてゐるのでございます。同じやうな雑殻が植ゑつけられてゐるとは言へ、細かく所有者が区分された小山の頂でござゐます。
向かうの畑中に働いてゐる人がをりました。
その人はブリキ罐の音を聞きつけたらしく、前屈みにしてゐた上体を起こし、私の方に振り返りました。
私には見覚への無い顔でござゐました。と申しましても、実はその人は顔を灰色の手拭ひで覆つてゐたのでござゐました。
一枚の手拭ひで頭を包み、更にもう一枚でマスクのやうに鼻から下を包み込んでゐたのでござゐます。
見ることができたのは目の周辺ばかりでござゐました。その上西空を背にしてをりましたので、その僅かに露した部分もはつきりとは見定めることはできませんでした。
私は部落の人々は全て知つてをりましたし、殊にこの小山で出会ふ人々については良く知つてをりました。
けれども何分にもその覆面めいた頬かむりでは、その人が誰であるのか判断がつきかねたのでござゐました。
私は無言で会釈しました。
握つてゐた「猫」の手押し棒を離しました。ひときわ姦しくブリキ罐が鳴り、そして余韻のやうに枡落としが擦れ合つてキイキイと鳴り、やがてそれも止みました。
あの人は、灰色のシャツに茶色のズボンを履いてをりました。
私の会釈には返事をせず、腹のあたりを右手で叩き、それはおそらくは土埃でも叩き落としたのでござゐませう、突然仕事を止めて私が登つて来た坂道とは逆の方にある道に向けて歩き出すのでござゐました。左手にはスコップをぶら下げてをりました。
一体、人はあのやうに仕事を頓座させることができるものでせうか。
畑で仕事をしてゐてそれに区切りをつける段に、あんな具合に仕事の仕上げやら明日の段取りやらを思ひ巡らすことを一切しないで(私にはさう見えたのでござゐます)、さつさと踵を返すといふ風に。
それは何かしら、私といふ他人がやつて来たのが邪魔だとでもいふやうな、そんな印象でござゐました。
私は妙な気がゐたしました。
後味が悪かつた。そして何だか不安な気がゐたしました。あのやうにこの小山の上で人に対したのは初めてだつたからでござゐます。
あの人は足速にずんずんと坂道を下つて行き、膝のあたりから腰のあたり、そして腹から肩のあたりと段々に小山の向かうに下りて行き、もう私からは首の上だけが見え残つてゐたところで不図歩みを止め、振り返つたのでござゐます。
黙つたままで私を見つめ、見つめながら坂道を下りて行くのでござゐました。
さやうでござゐます、あれがあの人を見た最初でござゐました。
(続く)
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