書評マニア

 もとよりここに書いてあるものは非公開にしたいものなのだが、のぞきに来てはバカなことをするやつがいる。で、近々閉鎖しようと思う。なにしろ倉庫に鍵をかけておかなかったと同じ状態であった。全部鍵のある倉庫に移すことにしよう。

ようこそ書評マニアへ
ここでは主として人権と教育にかかわる書籍の書評をする。殊に読み書きが苦手な教員諸氏にもツボがつかめるように書いたものや、学会などで論争になったものなども含まれている。
歴史研究は歴史書から




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中野実研究会編『反大学論と大学史研究―中野実の足跡―』東信堂 四六〇〇円+税

2006-10-04
 書店で手に取ってみてよくわからなかったのが、「中野実」という人物。私たち教員には心当たりのない人物だが、「反大学論」という刺激的なタイトルに惹かれて買ってしまった。厚さから言えば『学校は軍隊に似ている』よりはお得かも。じゅうぶんに厚い。そして熱い。腰帯に「七〇年代の日本とは何であったか!」と書いてあるところを見ると大学紛争後の残り火の奇妙な熱さを感じないわけにはいかない。
 中野実という人物は二〇〇二年に五〇歳で亡くなった東京大学大学史史料室の助教授だという。東大で大学史をやっていた人だし、わざわざ故人名を冠した研究会が編集するくらいだからよほどの大人物で、東大生え抜きの人間かと思いきや出身校は立教大学と書いてある。なんかついついこの人物について知りたくなってしまって読み耽ってしまった。
 どうやらこの人物が大学史という研究領域では第一人者であったことはわかった。いやいやこういう(「…だそうだ」みたいな)書き方をしてはいけないみたいだ。この業界の某センセイにうかがったら、大学史の世界では知らない人はいないくらいの人なのだそうだ(あっ!またかいてしまった)。だからその若くして亡くなったことは学界の大きな痛手なんだと。
 確かに早世した故人を悼む本ではある。しかし、内容は文字通り「反大学論」なのだ。内容は三部に分かれていて第一部は「序」。「序」といっても座談会「中野実の人と仕事」と「一九七〇年代の中野実」(米田俊彦執筆)という論文からなり、これで七〇年代が少し見えてくる。殊に東大で当時助手だった宇井純なんかが登場する自主講座「大学論」や五十嵐良雄が主宰して世にもの申していた現代教育研究所なんかにも真ん中で活躍していた人物だということが記されている。すげぇ。大学に入ったころにはもう紛争の臭いなんか消えていたあちきにはかなり新鮮な時代の空気を感じたね。冒頭にすでにこの研究会が二冊本を出しているというので調べてみたら、『大学史編纂と大学ア−カイヴズ(野間教育研究所紀要 ) 』野間教育研究所(二〇〇三年三月出版 五〇〇〇円+税)と『近代日本大学制度の成立』吉川弘文館(二〇〇三年十月出版 九〇〇〇円+税)の二冊だということがわかった。それで再び某センセイに聞いたらどっちもその筋では必読書みたいな本だということだった。しかし、問い合わせたらこっちの二冊は現在では入手不可能なんだと。惜しかった!
 で、第二部は「一九七〇年代の反大学論・教育批判論」となっていて、中野実氏が一九七〇年代に書いた論考がまとめられている。現代教育研究所なんて知る人ぞ知る組織の中心にいた人物らしく、時には筆名を使って原稿を書いていたようだ。そりゃそうだろう、大学史研究という学問研究をしつつ、その傍らで反大学論や教育批判を書いたのだから。かといって矛盾を抱えていたわけではない。緻密な(ほんとうに緻密な研究者だったらしい)歴史研究の土台があって大学を批判できる、大学の中にいてこそ大学の批判ができる。そういう生き方を全うした人物なのだろう。もとより短い文章として書かれたものを集めてあるのですごくわかりやすいし、七〇年代の大学問題、教育問題が手に取るようにわかるだけでなく、中野実という教育研究者のすごさに圧倒される。まさにもっと早く知っておけばよかったのに…、と後悔してしまった。
 第三部は「回想・追悼文集」となっていて中野実氏と親交のあった人たちによる文章が載っている。これも某センセイに聞いたところその業界ではビッグネームが並んでいるんだと。
 いずれにしても本書は一個人の死を悼む本のようでいて一九七〇年代を語る本であり、今の腑抜けた教育界に喝(かつ)を入れる一冊であることはまちがいない。思わぬ拾いものをした一冊であった。


★★★★ 子どもたちにビシバシ勉強させて、大学に送り込む。その先がどういうところか教員というのはちゃんと考えているのだろうか。大学が全入に近くなるという。そんな時代の中であちきたち教員が持たなければならない問題意識みたいなものをあちきは七〇年代の燃え残った熱気の中から感じ取ったのだ。
 
反大学論と大学史研究―中野実の足跡


Posted by yas007golgo13 at 17:08:36Comments(0)TrackBack(2)教育学・教育史

新谷恭明『学校は軍隊に似ている 学校文化史のささやき』(社)福岡県人権研究所発行、海鳥社発売 一二〇〇円+税

2006-10-04
 『ウィンズ』の読者のみなさんには学校の教員が多いだろうと思うし、中学やら高校のセンセイなら歴史を教えている人も多いだろう。そういう方々には釈迦に説法みたいなものだが、歴史というのはどういう教科なんだろうか。まさか入試のための暗記科目なんて思っている人はいないだろうね。まさか歴史なんてなんの役にもたたないものだ、と言う人はいないだろうね。もし、そういうふうにしか歴史について語れない人が近くにいたら是非この本を薦めてほしい。どうしてって?どうしても、さ。
 本書は「学校が病んでいるとおもえる現象があとをたたない」という書き出しで始まる。「学校が病んでいる」、それは現在の学校のあり方に対する一つの問題意識であろう。役に立たないと思われている歴史に何ができるか。ある意味で本書は現在の学校に歴史という刀で喧嘩を売っているのかもしれない。
 著者によれば現在の学校は生活習慣病を患っているのだと言う。そしてその生活習慣とは学校文化といわれるものであり、本書はそうした生活習慣を治療(学校改善・改革)の参考のために記したものだという。そう言われれば身に思い当たることのあるばいね。
 まずは「学校は軍隊に似ている」というタイトルに惹かれた。そう言えば学校では「規律、礼!」なんていうモロ軍隊みたいな慣行があるし、部活の上下関係とか教員の怒鳴り方とか、軍隊に似たところはいっぱいあるような気がする。しかし、そういう表向きのところだけが軍隊に似ているのだろうか。命令口調をやめたら子どもたちがタメ口をきいてきて収拾がつかなくなった、なんて話もよく聞く。それって軍隊だったら反乱なんだろうな。
 で、頁を繰ってみるとそんな話は最初のいくつかで、あとは学校の中にある(あった)いろんなできごと、しきたりなんかについて歴史的に説明されている。語り口の軽妙さにのせられてついつい読み進めていくと、すっごく重たい問題にもぶちあたってしまう。そういう魅力を持った本だ。例えば「蛍の光」という歌があるよね。卒業式によく唄う歌なんだけど、その四番とかがあるのを初めて知ったけど、なんちゅう恐ろしい歌なんだろうと思ったな。それから殉職というのも知って気づいたんだけれど、死んだ本人の意思とは別に人間の死っていうのはいろんな人、殊に権力者によって利用されてしまうものなんだな、とか感じちゃってうかつに死ねなくなったし、最近はやりの二学期制も四月に学年が始まる限りなじむのは無理なんだってこともわかった。そういうふうに読んでいくと歴史というのは暗記教科だって決めつけるのではなくってもっと深い教科になるものだってことがよくわかる。読んだそばから歴史の授業案を書き換えなくっちゃって思ったね。
 で、どこかで読んだことがあるなって思ったら、本書は県同教の機関誌『かいほう』の最後の頁に載ってる「羅針盤」というコーナーに書いた文に加筆してまとめたんだと。そういえば「羅針盤」はけっこうおもしろくて毎回楽しみにはしていたけれど、現物はどっかになくなってしまったりして、読み返したくても読み返せないし、今回出版にあたってはずいぶん文章も書き換えているみたいなのだ。そしてまとめて読んでみると「羅針盤」のおもしろさが倍増してやってくるという感じがする。

★★★★ まさに目から鱗の二十五章。学校文化を考える宝石箱みたいな珠玉の一冊。読まないで学校について語れまい。ところで、厚さの割に高いのか、それとも濃いのか。それは問題だ。あちきは濃いほうに百点!
学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき


Posted by yas007golgo13 at 17:06:08Comments(0)TrackBack(0)教育学・教育史

福岡市同和教育研究会『福岡発!今Dokiの部落史学習 上巻』

2006-10-04
 部落史学習と言えば、六年生の歴史学習で身分制度をやるときにやたら緊張してやるものだと思っている人はいませんか。だいたいが天皇だの、将軍だのを時代の象徴にして編集された権力史観の教科書でずっと授業をしてきて、突然そこで部落中心主義の歴史になり、はたまた王政復古のあとに解放令をやって、日清日露のナショナリズムを鼓舞したところで水平社になるといったジグザグ史観の授業になったり、渋染一揆と竹槍一揆と水平社を同じ次元でやったりとか、ともかくやっかいなんだな、部落史学習というのは。
 問題は日本史教育を主題次第でいろんな歴史観を使おうというところにある。かといって極端な人民史観(部落中心史観)でやるというのもどうかなと思う。なにしろそれじゃあ世の中が見えないというものだ。
 ところがこいつはすごい。手にとって驚いた。部落史学習と銘打ってはいるが、中身はまっとうに日本史の教材なのだ。んで、冒頭に書かれている福岡市同研による「部落史学習の現状と課題」を見てみるとわたしと同じように特別な学習としての部落史学習はまずいということに気づいてんだな(あたりまえか、市同研なんだから)。つまりは部落問題(史)学習が特別な学習になっていることとか、教師の価値観を押しつけていることなんかをぞろぞろ並べて総括している。かなり耳の痛い批判的総括だ。さらに歴史学習における学力保障という点にも批判は及ぶ。部落問題学習や部落史学習だけにこだわっていれば学力保障の観点は欠落する。子どもたちが楽しく学び、よくわかるというふつうに日常的な授業改革が必要なんだとうったえているのだ。
 で、授業のめあてをきちんと確認し、流れをおさえた上でいかに子どもたちの学びを引き出すかという工夫がちりばめられている。それも編者の技巧を押しつけるのではなく、授業者自身が創意工夫できるように気持ちが行き届いているのだ。そして何よりすごいのが資料だ。基本的に資料から発言するという姿勢をとっているので、使われている資料はよく精選されている。よく学校は著作権の無法地帯だという言われるが、それは本書に収められているということできっと市同研がかぶってくれるのだろう。安心して使える(但し、190頁の「データ利用上の注意」をよく読むこと)。
 そうそう何よりすべての資料が添付のCD-ROMにぜえーんぶ入っていて、必要なところを切り取って自分独自の教材を作ることができる。これは便利だ。資料は全部で128点、使いでがあるのだ。ともかく感動した!福岡市の教員は幸福だねぇ。

☆☆☆☆ これは部落史学習の、というより日本史学習の革命だと思う。さぞかし、福岡市のセンセイたちはいい授業をしてくれるだろうし、子どもたちもすばらしい学習ができるのだと思う。本書は上巻なので江戸幕府の崩壊まで。近代を扱うだろう下巻が楽しみだ。県同教も負けずにいいのを作らないとね…。

学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき


Posted by yas007golgo13 at 17:04:42Comments(0)TrackBack(4)教育及び教育問題

鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書 七百円+税

2006-10-04
 ワールドカップがやってくるとナショナリズムが高揚する。愛国者にとってはまさに至福の時だろうし、自称左翼の方々には日の丸の旗が観客席を埋め尽くしているさまに眉を顰める御仁もあろう。しかし、いずれにしても私たちはきちんと愛国心について考えることを避けてきたのではないだろうか。その一方で、愛国心に反発を覚えつつ、ぬくぬくと「この国」の慈愛の中で日々の平安を満喫している人もいるのかもしれない。
 それはさておき、世の中には自分は愛国者だと言いつつ、実際は不忠者が多々いるようだ。記憶にあるかどうかわからないが、日の丸・君が代を無理強いしようとして「強制しないように」と天皇にたしなめられた某自治体の教育委員なんぞはその典型のようなものだ。ただただ自分の卑小な生育史の呪縛から逃れられないやつ(換言すれば、自分の都合のいいようにしか社会を見てこられなかった人々)であろう。もっともこうした人間は自称左翼の中にも多々いるようだ。
 ところで、くだんの教育委員、もとい将棋差しがただその生育史の中において純朴に日の丸・君が代大好き人間であったからということで某知事の覚えめでたく教育委員になり、自分の小さな世界観を一千万の市民に押しつけていくという姿はどう見てもこの国をよくしていこうというふうには見えない。天皇がその愚かさをたしなめたのはまさしくこの国を思う天皇の見識であろう。その点からみてもこの教育委員とそれを雇用し、日の丸・君が代を強要している某知事などはまさしく不忠者ではないのだろうか。
 不忠とは愛国者ならば国家に対して背信行為をするということである。もとよりこの国を天皇制国家と信ずる天皇主義者ならば天皇の望むところにそわない奴等である。古より天皇は何より民の平安な暮らしを望んだと言う。ならば国民を戦場に駆り立てる者ども、威嚇的な街宣車で恫喝していく者ども、言論を力で抑えようとする者ども、愛国心を強制する者、君が代斉唱を強要する者は皆不忠者と言ってよいのだろうと思う。
 それならば忠なる者とは誰か。おそらくは愛国者であるにちがいない。そしてなんと言っても愛国心といえば右翼だ。それはまっとうな右翼にちがいあるまい。ということで本書は右翼団体一水会の代表鈴木邦男による愛国者と愛国心についての提言だ。この人は元日本赤軍の連中と友誼を交わし、日教組委員長と対談したことで物議を醸すということで耳目を集めてきた人だ。愛国心についてもその立場での見識を持っているであろう。ということで、本書は世の腐敗した右翼もどき・似非愛国者たちのみならず、愛国心について考えたこともなく愛国心通信表を見過ごした左翼もどきにも是非読んでもらいたい本だ。
 鈴木邦男は暴走した愛国心や強圧的に押しつけてくる愛国心を嫌う。他人と他国を愛さない、自己愛と自国愛でしかない凶器としての愛国心をまずは嫌うのである。そしてどうしたら愛国心を暴走させない、凶器にさせないかを本書を通じて考えようとしている。
 例えば鈴木氏は拷問死したプロレタリア作家小林多喜二が仁徳天皇と同じように民の幸福を願っていたということを指摘する。そして彼を国家の名において虐殺した特高こそが自己愛と自国愛しか持たない似非愛国者であり、不忠者だったかもしれぬというのだ。
 本書のキーワードは「愛国と憂国」に尽きる。憂国ってわかるかなぁ。その辺を読み解いていくと愛国心を押しつけたり、愛国者であると傍若無人の振る舞いをするやつらが不忠者であることがよくわかる。そういうふうに考えれば御上の真意を理解しない中間管理職って多いだろう(中間管理職っていうのは天皇と下々の中間にいる管理職ってことだから、総理大臣から教務主任までを含む)。また、愛国者気取りで恩師が左翼だからといって非難してまわっているコンドーくん(誰?)やらも不忠者だし、組合嫌いの自称体制派教師も不忠者だろうね。何しろ陛下はそんなことをお望みではないだろうから。
 そんなわけで鈴木邦男は憂国を主張する。この国がもっとよき国であるように現状を憂える。腐敗した似非愛国者の横行を憂うのだ。
 もっともあちきが忠義者だとは言わないが、列挙した不忠者よりはまっとうな生き方をしているとは思う。何しろこの国を不忠者が跋扈している時勢を憂いているのだから(憂国だ!)。

☆☆☆☆ 不忠者必読のわかりやすい愛国心入門書だ。その稚拙な自己チュー的愛国心を洗い直せ!なんとなくあちきも右翼になったみたいな気がしてきた。そのくらいこの人は真面目に愛国心について考えているのだ。似非右翼よりも、似非左翼よりも、そして似非人権主義者よりも。(嗚呼!憂国的になってきたわい!)
愛国者は信用できるか


Posted by yas007golgo13 at 17:02:50Comments(0)TrackBack(2)戦争と平和

四方一瀰『「中学校教則大綱」の基礎的研究』梓出版社 六〇〇〇円+税

2006-10-04
 ちょうど二十年前になる。一九八六(昭和六一)年五月十日、郡山での全国地方教育史学会の時に神辺靖光、米田俊彦、新谷と四方一瀰氏の四人が郡山ワシントンホテルのロビーに集まり、密談を行った。中等教育史に関する研究会を作ろうではないかという話し合いだった。そしてこの年の七月十九日に第一回の中等教育史研究会を開催したのであった。それまで日本教育史の中で中等教育史に関する研究というものがなかったわけではない。ただ、中等教育史という研究分野はまだ確立していなかった。中等教育史の領域に属すると思われる研究書も数えるほどもなかった。そうした中で中等教育史研究の仲間を集めてディスカッションの輪を広げたいというのがそのときの四人の切なる願いであった。
 それまでは中等教育を対象とした研究がなかったわけではないが、中等教育史研究という領域を意識した研究の蓄積があったというふうには評価はしにくい。中等教育史というものが展開を迎えるのは一九七〇年代後半からであろう、とかつて私は書いたことがある(新谷恭明「課題と展望 中等教育史」『日本教育史研究』 第7号 一九八八年)。そして、中等教育史研究のある部分は明治前期の政策史的な研究に力を注いでいた。それは明治前期を研究するということが「日本における中等教育の原点を模索するもの」(同)であったからだ。その中で私は「その明治前期の中学校政策を変えたといってもよい中学校教則大綱に関しては四方一瀰ママ氏が一九八〇年代にはいって精力的に中学校教則大綱の府県準拠規則の研究を続けている」(同)と評価していた。
 このとき書いたように四方氏は実に精力的に研究を重ね、その後も重ねていたのを送られてくる抜刷によって承知していた。本書はそうした精力的な研究の集大成であると言えよう。
 周知のように、日本の中等教育が成立していく過程で避けて通れないのが明治十年代における中学校の正格化である。その正格化政策の端緒となったのは中学校教則大綱であったのだが、その制度と理念が地方に定着していく過程はいくつかの地方教育史的研究では断片的に触れてはいるものの政策としての全体像は未解明のままであった。というより、中学校教則大綱という制度について正面から取り組んだ研究は皆無であったといってよい。本書はそうした中学校教則大綱の法制度史研究と位置づけることができよう。
 まず、本書のおおよその構成は左の通りである。

第一章 「中学校教則課程」の成立過程
第二章 府県における中学校教則大綱準拠規則の成立過程
第三章 中学校教則大綱と「教授要旨」
第四章 中学校教則大綱と教科書
第五章 中学校教則大綱体制と「尊王愛国」・儒教主義
第六章 中学校教則大綱体制と教育財政
資料編

 第一章では、『文部省日誌』や三高史料、各府県庁文書などの一次史料を駆使して中学校教則大綱体制が成立していく過程が描かれている。その過程での文部省の統制・画一化の流れを府県及び官立大阪中学校を素材に丹念に読み取っている。そしてその過程が決して順調ではなかったことも意味のあるものとして理解できた。
 第二章では、埼玉・山口の両県と東京府を対象として府県における中学校教則大綱受容の実態を一次史料を丹念に読み解きながら解明している。著者に言わせれば、この時期の「実態資料はもとよりもっとも基礎的な行政史料についても不明な点が多い」(七三頁)ということであり、確実な史料の積み上げによって実態の一端を解き明かしている。そして
 第三章では、「教授要旨」について検証しているのだが、実際の教育内容や水準に関わる「教授要旨」ができあがっていく過程からこの時期の文部省が中学校の教則や教育内容についてまだ模索段階であったことを明らかにし、実際の府県中学校や官立中学校での「教授要旨」について検証を行い、それらの特色を明らかにしている。
 第四章は中学校における書籍の問題を俎上に載せている。中学校教則大綱が中学校の内実を正格化せしめていくものとして制定された以上、中学校で使用される書籍の扱いが重要視されてくる。この章では中学校教則大綱によって重要性を増した書籍の扱い(集書、貸出、管理等)について明らかにしている。章のタイトルには教科書と記されてはいるが、むしろ学校図書館史としての意義がある研究である。
 第五章では中学校教則大綱のイデオロギー性について検討をしている。中学校教則大綱は単に中学校制度の整備にとどまるものではなく、中学校教育によって育成される人物についても考慮していた。それを「儒教主義による『尊王愛国ノ涵養ノ重視』」と著者は見ているのだが、ここでは「教授要旨」、校則、「生徒心得」等にそうしたイデオロギーが込められている実態を明らかにしている。おりしも不平等条約の改正といった外交問題、自由民権運動に対する対応といった内政問題を抱えていたわけで、その実際の扱われ方を見ていくことで後の国家主義教育の芽を見出している。
 第六章では、財政問題に言及している。おりしも松方財政下で学校財政も困難を期していたとの認識から、中学校の制度的な充実、教員の確保といった財政的基盤を要する部分の実情について主として山口県を素材に解明している。
 また、資料編にも注目しておきたい。資料編は一八〇余頁にのぼり、〈一 官立大阪中学校教科書表〉、〈二 「中学校教則大綱」府県準拠教則・教則「教科用書表」にみる教科書一覧〉、〈三 「中学校教則大綱」府県準拠校則・教則「教授要旨」一覧〉がまとめられている。これらは本書の中でも言及される史料でもあるが、それぞれの研究者が地方史的な研究を行う際にもじゅうぶんに活用できる史料であり、たいへんありがたい。
 以上だいたいの本書のアウトラインを紹介したが、実は本書はこういう紹介のしかたでは語り尽くせない。なぜならば本書にまとめるまでの著者の史料収集への並々ならぬ執念とでもいうべきものがあるからである。「各府県庁文書などの一次史料を駆使して」などと一言で片付けてはいるが、著者が探索したのはすべての府県の行政史料である。著者はコツコツと全国をくまなく歩き回って史料を収集し、その膨大な史料群を解読し、少しずつ成果として世に問い、ようやく本書の刊行にこぎつけたのである。その間二十余年の歳月を費やしたという。それでいて著者は「基礎史料の収集だけ」(あとがき)であったとひかえめに記しているが、著者が研究者としての道を歩き始めたのが高校の教員から大学教員へ転身した四十八歳の時からであったという来歴を知れば尋常な努力ではないということが想像できるだろう。
 ともかく著者の史料への執着が本書をして「基礎的研究」と名乗らせている。本書は一貫して府県の行政史料を中心とした一次史料をベースとして「個々の問題についてその性格や意義を論究することをできる限り避けた」(まえがき)という叙述をしていることによる。中学校教則体制という日本の中等教育のあり方が定まる最初の段階での制度的枠組みがどういうものであったか、ということを説明するときにあえて基礎的研究と銘打った叙述スタイルはじゅうぶんに中等教育史研究に貢献するものであると言えよう。
 はじめは史料を読まされる感があるのだが、それらの史料が巧みに読む者を引っ張っていき、一気に読了してしまう。その説得力こそが史料に語らせるという正攻法の魅力そのものだと思う。ややもすれば軽々に性格や意義を論ずることで安易な研究に陥りがちであるが、本書は歴史研究の王道を示してくれている。その意味で、これから教育史研究に踏み出そうとする人にこそ読んでほしい一冊である。
 思えば、中等教育史研究会を発足させようと本書の著者である四方一瀰氏を含む有志が集まってからちょうど二十年である。その記念すべき『地方教育史研究』にこの書評を書くことができたのも何かの縁であろうかと思う。二十年にして中等教育史研究は基礎的研究をひとつ世に問うた。願わくは本書に続く基礎的な研究が積み上げられていくことを期待したい。
『中学校教則大綱』の基礎的研究


Posted by yas007golgo13 at 17:01:02Comments(0)TrackBack(0)教育学・教育史

大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』ブックマン社 一二三八円+税

2006-10-04
 「きっついお仕事」にはいろいろあるだろうけれど、和田虫像氏が体験できなかったお仕事にデリヘル嬢がある。なにしろこれは女性にしかできない仕事なのね。この著者の大森みゆきという名前は仮名です。仮名であるところに風俗という世界へのこの世の偏見ちゅうものがあるのかもね。
 で、この著者、デザイナーとして働きはじめたところ、いろいろな壁にぶち当たっていわゆるソープ嬢になったんだって。その彼女がひょんなことで「障害者専用のデリバリーヘルス」という業界に入ってしまう。なにしろ、ソープ嬢を半年したというのが、このお仕事に就くまでの彼女の風俗と介護(こっちは経験ゼロ)のキャリアなのね。それではじめちゃったんだから、この業界もすごいよね。
 まず、謹厳実直な読者の方々にはデリバリーヘルス、略称デリヘルって何だか説明しないと、この本の意味からしてわかんないわよね。あたし?あたしだってわかってるわけないじゃない。ま、読んでみて推測するにデリバリーってのは出前ってことだから、店舗を持たない仕事なの。そしてヘルスって、べつに健康食品とかじゃなくて、性的なサービスをすることだと考えたらいいようね。性的なサービスといっても性交渉は売春だから、これは法律違反。そうならない範囲で顧客の性的欲求を処理する仕事と考えたらいいみたい。まあ、「きっついお仕事」の一つに入るといえそう。
 それで本書は大森みゆき(仮名)さんが障害者専用デリヘルというお仕事の体験を紹介してくれている本なの。でもキワモノではないよ。最初に書いたように世間ではいわゆる風俗っていう世界はやっぱり陰の世界なのね。例えば「同和」教育に熱心なセンセイがデリヘル嬢を呼んで遊んだ、なんて言うとみんなから顰蹙を買うことはまちがいない。例えば「風俗っていうのは性の売買で、性の売買は女性の尊厳を否定しているから人権・同和教育に携わる人がなんてことをするのだっ!」なんて批難する人がいるかもしれないし、「そもそもそれはジェンダーの問題でして、そのようにジェンダーを一方的に押しつけることが……」なんて理屈をたれる人もいるかもしれない。
 しかし、障害者が性欲を持たないはずはないし、性欲を満たしたいということも一つの自己実現じゃないのかなあ。ところが、障害を持っているがゆえにその性欲の処理は健常者のようにはいかないことって想像がつくでしょ。実際に自慰そのものがままならない人だっているんだと思うの。彼女はこのお仕事を通じていろんな障害者の方と出会う。そして、いろんな形で彼らの性欲の処理に貢献するんだけど、世間っていうのはきっとこういうお仕事についてはフツーの風俗産業以上に眉をひそめるんだろうな。逆に言えば障害者は性欲を持っちゃいけない、恋愛や結婚は許されても風俗産業で遊んじゃいけないって思ってんじゃないかな。ともかくそういう偏見を彼女はどんどん打破していくんだ。
 ところで、彼女は介護体験はまったくゼロでこのお仕事に就いたのね。で、お客様と出会うたびに少しずついろんな技術を体得していくんだけど、あるお客様の時に性器を清浄綿で拭こうとしたとき本人はデイサービスで入浴しているからきれいだと思っていたらしいんだけど、そこには垢が真っ白にこびりついていたんだと。介護というのはきっと「性」の部分から目をそらしてしまうものなんでしょうね。だから見えないそういう部分には手は触れないのでしょうね。それにそこまでていねいに洗うべきだとも言えないしぃ。何しろすごくプライベートな部分だものね。
 これは介護の問題ではないと思う。そうではなくて介護と人間の「生」(生きるほうだよ)との〈はざま〉みたいなものがあるような気がして、だからそこって介護には絶対手の届かないところなのかもしれない。障害者の「性」(りっしんべんだよ)に向き合うことになった彼女はそうした手の届かないところに手をさしのべることのできる存在だったのだろう。世間からは二重の偏見を浴びながら…。

★★★★ これでまた読者諸姉諸兄の職業リストにひとつ「きっついお仕事」が加わったんじゃないかな。大森さんはこのお仕事にある種の職業倫理みたいなものを持っていたような感じがする。このお仕事への誇りなのかもしれない。人権・同和教育を考える上で、「障害者問題」を考える上でも、「いのち」について考える上でも、「しごととくらし」について考える上でも、「女性と人権」について考える上でも貴重な一冊。
私は障害者向けのデリヘル嬢


Posted by yas007golgo13 at 16:58:52Comments(0)TrackBack(2)人権問題

和田虫像『きっついお仕事』(裏モノJAPAN2月号別冊) 鉄人社 八八〇円

2006-10-04
 以前、村上龍『13歳のハローワーク』というのがけっこう評判になってたよね。職業教育ってけっこう世の中の関心を呼ぶところみたいで、本はけっこう売れ続けているみたいだし、専用のサイトもあるよ。http://www.13hw.com/
 こういう本ってもちろん学校のセンセたちも読みたがっているよね。だって、進路指導とか、職場体験とか教育現場は子どもたちにいろいろ職業教育をしないといけないみたいだから。それに「同和」教育なんかで「職業に貴賤なし!」って教えなきゃいけないらしくって、かなり無理していろんな仕事をほめなくっちゃいけないんでしょ。持ち上げる根拠も知らなければならないのに、実はよく他の仕事のことは知らないのが教師ってもんだ。しかも、聞くところによれば、職業を通じての「生き方」みたいなことまで指導するんだっていうらしいし、学校のセンセってたいへんなんだなあ。だって若いときに自分の意志で職業を選ぶような世界観の広い人はきっと教師なんかやってるはずないし、学校にしかいたことのない人が他人に人生なんて語れるはずもないし、ね。かなり無理しなくちゃいけないのが進路指導とか職業教育だよねぇ。だから『13歳のハローワーク』は売れ続けているんだろう。
 ところで、あたしが思うに職業に貴賎があるかどうかは知らないけれど、楽しいとか辛いというのはあるだろうし、他人に自慢したい職業もあるだろうけど、ついつい卑屈になっちゃう仕事だってあると思うのね。それから早く抜け出したい仕事もあれば、やめろと言われてもしがみつきたがる仕事もあるようね。でもどんな仕事もけなしちゃいけないっていうのが教育現場なのかもしれない。それではいろんな子どもたちに職業教育をするのはすごくしんどい作業になるだろうね。
 職業選択っていうのはあたしが教師になったみたいに、何とか大学出て、他にやりたいこともないし、センセとか呼ばれて自尊心をテキトーにくすぐられるし、ってな具合でなるように安直なものじゃないと思うの。子どもたち自身は職業がどんなに人生にとってどういう意味を持つものか、金を稼ぐというのはどういうきびしさがあるのか、全然わからないと思うんだね。そしたらまずは世の中にある「きっついお仕事」を体験的に示すことって大事じゃない?
 で、この本だ。『裏モノJAPAN』という雑誌の別冊なんだから、このウィンズが出た頃にはもう店頭にはないかもしれない。でも、紹介しちゃおう。まずはこの『裏モノJAPAN』という雑誌。発行元のHPによれば「本誌の扱う素材は、夕刊紙の三行広告やインターネットの掲示、巷に転がる気になるウワサ、うまい儲け話、セックスがらみのオイシイ話、ギャンブル、悪徳商法、非合法ビジネス、性風俗、精神世界、秘密サークルやパーティ、欲望に直結した商品などなど“裏”の匂いのするモノ(これを裏モノと呼ぶ)なら何でもあり」なんだと。で、この別冊のライターは25歳の駆け出しライター。彼自身がフリーターみたいなものだ。それで世間の多くの人が避けたがる「きっついお仕事」を25種、全部体験してレポートしたのがこの本だ。どんな仕事を体験したのかといえば、養豚場飼育員、日雇い土木作業員、ゴミ収集業者、汁男優、新薬臨床体験ボランティア、ピンサロ従業員、高層ビルの窓ガラス清掃等々と多彩な職業が並んでいる。中には子どもたちには紹介したくない職業もちらほら見えるだろうし、犯罪とすれすれの職業も載っている。
 「職業に貴賤なし!」とか「どんな仕事にも誇りを持とう!」とか言うのは簡単だが、まずは「きっつい」ということを一つの基準として職業を見てみることは教育現場しか知らないあたしたちには大事なことかもしれないよ。自分でしたこともないのに「この仕事は誇りのある仕事ですぅ…」とか、「すごく世の中の役に立ってますぅ…」とキレイゴトを言う前に、まずは「きつさ」をしっかり知ろうじゃないの。


★★★★ 「きっついお仕事」の中身はここには書かなかった。だってすごいんだもの。でも、生身の体験記だからほんとうの意味でそれぞれの仕事の尊さも見えてくるし、テキトーに人生をやり過ごそうというのはむずかしいこともよくわかる。まずは教師自身が職業っちうものについてをこの本から学ばないと。

Posted by yas007golgo13 at 16:55:53Comments(0)TrackBack(2)人権問題

神立春樹著『明治高等教育制度史論』(お茶の水書房)定価三六〇〇円+

2006-10-04
 本書を執筆した神立春樹氏はもとは近代日本経済史が専門で、『明治期農村織物業の展開』(東京大学出版会 一九七四年)、『産業革命期における地域編成』(お茶の水書房 一九八三年)をはじめ、多くの著作がある。氏の近代日本経済史研究は産業編成・地域編成・生活編成という三編成視点から日本産業革命を捉えるものであったという。その中から「明治の時代そのものを対象とする明治期研究の拡がり」(以上「まえがき」より)へとすすみ、『明治文学における明治の時代性』(お茶の水書房 一九九九年)という著作まで書かれているのである。
 このような研究関心の広さを示す著者が高等教育制度史にかかわる本書を世に問うたのは氏の勤務されていた岡山大学が『岡山大学五十年小史』(一九九九年)を刊行したことと無縁ではないようだ。次いで氏は岡山大学を退職された後に二松学舎大学に移られるが、ここで氏は岡山大学とはまた異なった私塾系の私立大学と出会ったのである。
 本書はそのような著者の大学史との出会いを契機に明治期の高等教育制度史を構造的把握しようとしたものと考えてよいだろう。
 まず、本書の構成は左のとおりである。
 第一 第六高等学校・岡山医学専門学校の設立
 第二 明治三十六年度全国高等学校入学試験状況と山口高等学校
 第三 岡山大学の前身校史
 第四 国家の施策と高等教育機関
 第五 近代日本高等教育制度史における二松学舎
 各章は岡山大学、二松学舎大学の紀要等に書かれたものが下敷きとなっており、著者が大学の紀要に自らの覚書として書き残した文章をまとめて一冊の書物にしたというのが妥当であると言えよう。
 第一では第六高等学校、岡山医学専門学校の成立史を『学制百年史』、『日本近代教育百年史』、『六稜寮史』といった基本文献、基幹史料に基づきながら概述している。第二では山口大学経済学部所蔵の文書綴の中にあった高等学校入学試験関連の史料を紹介する形で明治三十六年の高等学校入試の一端を垣間見る章となっている。第三は新制岡山大学の前身校であった岡山医科大学、第六高等学校、岡山師範学校、岡山青年師範学校、岡山農業専門学校の歴史のアウトラインを説明し、さらに大原農業研究所についてもその歴史的概要を叙述している。この項は一九九九年に刊行された『岡山大学五十年小史』の一部をなすものとして書かれたという。第四はこうした前身校の歴史を見ていくに際し把握しておくべき明治期の高等教育制度について基本文献をもとに整理した章である。そして第五は著者が岡山大学を定年退官後勤務することになった二松学舎大学の歴史を略述したものである。
 このように本書はおおむね著者の職業的基盤となった大学とその周辺に対する関心からそれぞれの制度史の概略を整理したものとして読むことはできる。但し、本書が大学史研究に新たな知見を与えることを目的として執筆されたというふうには考えないほうがいい。使われている史料が特に目新しいものではなく、引用されている文献も一般的なものであり、格別大学史の先行研究を渉猟したという形跡はない。ただ、積年の経済史研究者としての執筆力によって一冊の著作にまとめ上げることができたのだと思う。
 むしろ本書は岡山大学、そして二松学舎大学に職を得た一大学人が自らのアイデンティティを自身の奉職した大学の周辺の歴史を綴ることで確認した記念碑として理解すべきだろう。ともかく、一読して著者の長きにわたって勤めた岡山大学に対する愛情を感じ取ることができるし、二松学舎で出会った私塾という存在に対する素朴な歴史的感動も追体験することができる。
 昨今、大学における自校史教育の実践が全国的に展開している。過保護過干渉で育った世代が偏差値教育の終点でもある大学に入学したとたんに学ぶ目的や意欲を喪失してしまうということは多々見かけられるようになってきた。大学に入ってから自らのアイデンティティを確立するためにも学生向けに個々の大学の歴史をまとめるということは必要であろう。本書は一経済史学徒がそうした問題提起を含めて自身が勤めた二つの大学に残した贈りものというふうに考えるのがよいだろう。

  



明治高等教育制度史論


Posted by yas007golgo13 at 16:52:07Comments(0)TrackBack(0)教育学・教育史

カレル・チャペック作 栗栖 継訳『山椒魚戦争』岩波文庫 八六〇円+税

2006-10-04

 今度の選挙は小泉首相の圧勝というかたちで終わったけど、与党が衆議院の三分の二以上を占めたっていうのはちょっとおどろきだったわね。この日わたしは天神の本屋さんでこの一冊の岩波文庫を買ったんです。なぜかっていうとちょうど選挙の日だったから。そして、自民党が圧勝しそうな予感をしてたから、かな。
 だいたいカレル・チャペックって人、知ってた? チェコの作家なのね。で、この本は一九三五年に書かれたもので、日本語訳になったのは一九七〇年で早川書房から出されたんだって。そして一九七四年に早川新書から再刊され、この岩波文庫版は一九七八年に出版されている。そんな古い本を今さら紹介することもないだろうと言われるかもしれないけど、歴史的な選挙の日なんだから意味があると思うからいいでしょ。
 訳者はどの訳も栗栖継という人。この栗栖継って人は生きてればたぶん九十五歳くらいになるみたいで、去年くらいまでは確かに講演なんかしてた痕跡はあるからきっと生きているんだろうと思うけど、最初のエスペランチストなんだって。それで戦後になってチェコ語を体得してチェコ文学研究家になったとか、けっこうすごい人みたい。わざわざ訳者を紹介したのは岩波文庫なんだけど訳がすっごく読みやすいのよ。ま、元は早川書房だからあたりまえかもしれないけど。
 ところで、早川書房といえばSF小説が看板の出版社ね。そしてその名に恥じず、この『山椒魚戦争』も立派なSF小説なんだわ。しかもめっちゃ面白いのね。どんな話かっていうと、一人の船長が東南アジアのある入江でかしこい山椒魚を見つけるの。そして山椒魚に真珠を取らせて一儲けしようとある社長に掛け合って、まあ、商談が成立する。で、この山椒魚を繁殖させて労働力として使い、ビジネスは一応成功するんだけど、この山椒魚たちはやがて言葉を覚え、さらに教育を受けることによって人間並みの知性を持つようになり、やがて人間をはるかに上まわるほど数が増えたあげく、ついに人間と戦争をして世界を制覇する、っていう話なの。
 あらすじを言っちゃえばもともこもないけど、チャペックという作家のひとつのテーマが人類は自ら生み出したものによって滅ぼされるというのを持っているのね。そうしたテーマにもとづいた作品の集大成みたいなのがこの小説なんだ。問題は人間が生み出したものって何かっていうこと。最初にこのテーマで書いた小説は人間がロボットに滅ぼされるという設定の話なんだけど、『山椒魚戦争』では人間がその欲望のために繁殖させた山椒魚っていうこと。
 そんな中で、人間に戦争を仕掛けたときに宣戦布告するチーフ・サラマンダー(山椒魚総統)というのが出てくる。こいつは「大征服者、技術者で軍人、山椒魚のジンギス・カン、大陸の破壊者なんだ。すごい人物だよ。」と紹介されるんだけど、作者自身の自問自答の中で事実が明らかになるのよ。

「……ほんとうに、山椒魚なのかね?」
「……ちがう。チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツェといってね。第一次世界大戦当時は、曹長だったんだよ。」
「道理で!」

というくだりなのね。つまり、チーフ・サラマンダーってのはアドルフ・ヒトラーを想像させるでしょ。だから、増殖する山椒魚はナチズムのことかもしれないし、広い意味での全体主義のことかもしれないの。こんなことを書いたせいでチャペックはナチにかなりにらまれたのね。結局追いつめられて寿命を縮めたみたいなんだけど、そのくらい風刺には毒があるのよ。けっこう思想的にも深いと言えるかも。
 でも、この小説のおもしろさってそんな教訓じゃなくって、「いかにも」って感じで実話を集めたみたいな手法で構成ができていること。だからかなりリアルに話が進むの。船長と社長を取り持った社長宅の門番が実は主人公というか、狂言回しみたいな役なんだけれど、彼は自分が船長を社長に「自分の意志」で取り次いだことが、この破滅の始まりだって思い込んで行くんだけど、彼が集めた資料で山椒魚の文明史が説明されていくのね。これがめっちゃおかしい。日本語の資料も出てくるけど、これがチョーおかしい。ここで紹介できないのが残念だけど、自分で買って見てごらんなさいな、笑っちゃうから。しかもね、最初に山椒魚が攻撃したらしいのはルイジアナを襲った地震と豪雨によるニューオリンズの水害なんだ。あのハリケーンを思い出しちゃった。七十年後をマジ予想的中させたSFかも。
 で、この小説のテーマは人間は人間の生み出したものによって滅びるってことだから、環境問題とか、IT化とか、なぞらえるものはナチズムやファシズムばかりじゃないのよね。それぞれの人にそれぞれの読み方もできると思うから、まずは読んでみて。

★★★★ たまには旧作の紹介もいいでしょう。この小説を読んで胸に手をあてればいろいろ反省する人は多いんじゃないかな。
『PLUTO』よりもっと思想的に深いし、エンターテイメントとしてもいけてる。全然古くないのね。


山椒魚戦争


Posted by yas007golgo13 at 16:48:50Comments(1)TrackBack(2)戦争と平和

木村涼子×小玉亮子『教育/家族をジェンダーで語れば』白澤社発行 現代書館発売 一六〇〇円+税

2006-10-04
 ジェンダーという言葉が世間に登場してきていくばくかの時日がたつが、その使われ方がじゅうぶんに理解されているとは思えない。しかもこのところジェンダーに関してはあちこちでバッシングなるものがなされているのも事実である。おおむねバッシングなるものが正義であったということはないのではないか。バッシングなるものはある種の匿名性を背景に暴力的ないたぶりが特定の対象に向けて行われることである。ジェンダーという言葉をめぐって、もしくはジェンダーという用語を使っての議論において学術的な論争がじゅうぶんだとは言えない。学会の、学界のなかでジェンダーという言葉について否定する議論はあまりお目にかからないのだが、一部の否定的イデオローグに乗せられたかたちで政治的な装いをして叩きまわる連中が湧いてくるのが、バッシングというものだろう。
 そういう世の中の不健康な風潮のまっただ中で本書は世に出た。よく見ると「りょうこ×りょうこ」という同じ読みの名前を持った二人の女性研究者による合作になっている。本書は二部構成で第一部では二人の「りょうこ」による「一種の往復書簡」として「家族」と「教育」について論じあっている。もとより月刊『教職課程』に掛け合いで連載した二人のエッセイをまとめたものであるから、なるほどジェンダー論のキャッチボールというおもしろさがある。しかもエッセイとはいえエキセントリックにジェンダーフリーを叫ぶ、というのではなく、噛み砕くようにジェンダーというものの見方を通して教育と家族について語りかけてくれているのだ。小玉亮子氏による「1 個人と差異と―アメリカの小学校で」というちょっと意外なところから議論は始まる。アメリカであるがゆえに複雑な人種問題や異文化について語られるのだが、問題として出てくるのは「非対称」の関係性なのだ。
 そしてこの問題が木村涼子氏による「2 名前の重さ」で展開される。ある時期までの女性名に一般的であった「子」という字は女性であることの記号として埋め込まれたものであると論じられているからである。そしてお二人がいみじくも「子」のついたおなじ「りょうこ」であったということはけっこう一人で笑ってしまった。ちなみに私の初恋の子はやはり字は違うが「りょうこ」ちゃんであった。ほら、「ちゃん」という呼び方をしてしまっただろう。きっと男の子ならひろし「くん」なのではないか。で、たけしくんみたいな勇ましい名前が付けられていくのも自分を意識する上で意味があるし、男女別男子優先名簿ってのは戦前の男子中心の学校制度のなごりみたいだ、って指摘にまでなる。で、「3 名前と社会のさまざまな関係」で小玉亮子氏が「千と千尋」や「ナウシカ」なんかを駆使して名付けることの意味を語る、っていうぐあいにジェンダーというボールがやりとりされて飽きさせない。全部で十二話あるから、存分に楽しむといい。
 第二部は二人がそれぞれ「女は理系に向かないのか―科学技術分野とジェンダー」(木村涼子)、「子どもたちが何を望んでいると語られてきたのか―社会調査言説から見える子どもと家族の現在」(小玉亮子)というややお堅い論文で締められているが、決して難解じゃない。「女は文系、男は理系」という思い込みについての正しい批判であったり、「父親と母親の非対称的な関係」が子どもの家族像をねつ造していることなんかをわかりやすく説明してくれている。
 しかし、「ジェンダーってそもそも何だ」というふうに理論的に深めたい人や性教育の理論と実践なんかを極めたい人は(ご存じ)『部落解放史ふくおか』第117号をゲットするといい。特集が「ジェンダーを考える」で、野々村淑子「ジェンダー研究の現状と課題」、久屋孝夫「性差別文化からの解放」、田代美代子「性教育におけるジェンダーの視点」、樹々由水「学校教育にジェンダーの視点を」という熱っぽい論攷が詰まっている。学術的、実践的双方の先端的な知と方法が満載の一冊だと言える。

★★★★ ジェンダーという言葉に対してバッシングが行われているけど、バッシングっていうのは無知な連中が一部のイデオローグに乗せられた政治的を装ったいじめだ。決して屈しないために、理論武装しようぜ!あっ、男性性が発露した表現だったな。

教育/家族をジェンダーで語れば


Posted by yas007golgo13 at 16:46:37Comments(0)TrackBack(3)教育及び教育問題
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 書評は強いられないと書かないものだ。なにしろそんなものを書く時間があるなら、次の本を読んだ方がいいからだ。また、頼まれると仕方なしに本を読むことになる。これは怠け者にとってはいいことかもしれない。
 そんな感じで、かなりの数の書評をしてしまった。あるものは本名で、あるものはペンネームで、そしてあるものは匿名で。なので、この書評ブログはあまり読まれないように作ってある。なぜブログにしたか?仕事中にすぐ引用できるように、だ。
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